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慧眼の士 〜Sandy砂子貴紀 エピソード2

初めに
この度ご紹介するのはSandyこと砂子貴紀さんです。
3社を経営する傍ら、経営者専門のプロコーチ・複数社の経営顧問としても活躍している彼。普段表舞台にあまり顔を出さない彼の半生を、今回特別に聴かせていただくことができました。友であり、ひとりの男として、父として、仕事人として、尊敬する彼の半生を知り得たことは僕の財産になりました。この記事を通して少しでも皆さまに彼の愛情をお伝えできると嬉しいです。長文になりますがお付き合いよろしくお願いします。

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Sandy砂子貴紀

慧眼の士〜Sandy砂子貴紀

目次
エピソード1
1.序章
2.少年Sandy「市場」をゆく 
3.少年Sandy 「スポーツマン」になる 
4.少年Sandy 「バスケットボール部」に入る 
5.スポーツマンSandyの挫折 
6.Sandyと優子 


エピソード2 
7.Sandy 大学に行く 
8.Sandy人のために生きる 
9.Sandy就職活動をする 
10.Sandyフレックスマンになる 


エピソード3
11.Sandyプロセールスマンになる 
12.Sandyチームを作る 
13.Sandy支社を作る
14.最重要をみつめて 
15.世界を翔る組織づくり 
16.あとがき 

7.Sandy 大学に行く

「現状維持でいけるところはもう過去で、選択肢にない。その時々で自分に負荷かけているように思う。単純にちょっと高みを目指してうまくいくっていうことを、当時から知っていたんじゃないかな。」と当時を振り返り彼は話す。
自身を努力型だと話す彼。やることはやっているのに報われないことへの恐怖・執着は常にあった。
 バスケ部をやめても、バスケットボールは好きだという気持ちは変わらなかった彼は、ある考えにたどり着く。「自分が惨敗したあのすごい体格と才能に恵まれたプレイヤーたちのさらに上をいくトッププレイヤーたちを、トレーナーとして支え導くのは、とてつもなく面白いかもしれない」という思いだった。監督やコーチというスポーツだけにかけるほどの自信を持てなかったと話す彼が着目したのが、スポーツドクターだった。当時イチローが初動負荷トレーニングを取り入れ、パフォーマンスがアップし注目を集めていたことや、単純に職業のかっこよさからも、思い至った瞬間「これだ!」と感じた。だがしかし、ここでも彼のもつ素質が壁となる。医学部受験に必須の物理という分野が得意ではなかった。ここで無理にしがみつかないなんとも彼らしい選択をする。スポーツ医学は学びたい彼が見つけ出したのが、当時1期生の募集を始めた早稲田大学スポーツ科学部 医科学科だった。目標が決まるとそこまでの最短距離を全力で突き進む。彼が人生で1番勉強したと自負するほど、とにかく毎日家族が心配するほど受験勉強に打ち込んだ。進路を決めた高校2年生冬の模試時点でE判定だった全国模試判定を、受験直前までの1年間でA判定にまで引き上げ、さらには同じ進路を目指す人の中で、全国模試2位の結果を打ち出す。
 ここまでくれば安心と、意気揚々と挑んだ大学入試当日、彼は失敗したと感じた。彼の中での失敗がどのようなものだったかは定かではないが、間違いなく落ちたと感じたと彼は話す。合格通知が出るまで、人生初の鬱状態に突入した彼は、食卓に座ると突然泣き出す始末で食事をとるどころではなくなった。はじめは家族も心配していたのだが、あまりにもずっと続くものだから、最終的には「あぁ、またか」とうんざりしながら、母が腕によりをかけ作った、きっと美味しかったであろう食事を、眉間に皺を寄せながら、家族揃って味気なく味わうといった日々が数日続いた。数週間後、合格通知を受け取り喜ぶ彼を見て、家族全員が心から安堵したのは間違い無いだろう。

8.Sandy人のために生きる

 彼には自分を満たすために人に貢献していた時代があった。自分が狡猾だったと話すその時代が高校生時代ではないかと話す。大学合格後、医学部に合格した友人のことを、心から喜べなかった。悔しさや嫉妬が自分の中に渦巻いていた。大学進学後、友達だと思っていた人に連絡をすると、返事が返って来なくなった。それでも気づかず相手を責め「はいはい、医学部にいけなかった友達は捨てて、高飛車になっちゃったのね。」なんて嘲笑い、自分もその価値を大学で出来た新しい人間関係にシフトしていった。友達ではなく、仮初(かりそめ)の関係だったと後に気付いたという。
 旅は人を変えるというが、彼ももれなく旅から自身を変化させた1人である。彼の価値観を大きく変えたのが、大学時代に得た海外での経験だった。大学1年生の時にオーストラリアで2週間ホームステイをしたのをキッカケに、次は男3人でドギツイバックパッカーとなり、タイ〜カンボジアを陸路で旅する。1泊1ドル、1食30円で済ませるようなハード&ノープラン。初日から下痢の洗礼に遭い、2〜3日は地獄だったが、幸運なことに3人中1人がバックパッカーを熟知する強者だったので、その彼に現地での振る舞いなどいろいろなことを教わりながら旅を進めた。
 旅の中で、Sandyが最も印象的だったと話すエピソードがある。当時タイとカンボジアでは国自体の貧富の格差が一目瞭然だった。タイまでは道路がアスファルトで舗装され、比較的街並みも美しかったが、カンボジアの国境を越えると道は土。街を歩く子供たちは裸だった。驚いている彼は「イチドルプリーズ」と口々にとなえながら近づいてくる人々に出会う。
「この言葉おかしいと思わない?『ワンダラー』じゃなくて『イチドル』。日本語なんだよ。日本人がお金をあげてしまっているってことなんだ。」と強者の友がどこか悔しそうに話した。
「絶対お金は渡しちゃいけない。別の貢献の仕方が必ずあるから。」とも。
 それを聞いたSandyは、持ち前の慧眼的反射神経で思いを巡らせる。
「別の貢献の仕方で、自分にできることってなんだろう?」
そう考えた彼の目が、すぐ横に裸で立っている少年に止まる。瞬間、彼は自分が着ていたTシャツを脱ぎ、ズボッと少年の頭から着せた。すっかりワンピースを着ているような風貌になった少年は、彼Sandyをこれまで見たことのないような、大きなキラキラと眩しい笑顔で笑い喜んだ。何の他意もなく、ただ人に尽くすことがこんなにも嬉しいことなのかと思い知ったという。この経験を機に、ただ相手のことを思い、本当の意味でその人のためになることをしようと思うようになった。今でも、現地で買ったTailandと書かれたTシャツを着た、名前も知らないその少年の笑顔は忘れられないと彼はいう。

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 それからも世界中をプランも決めず歩き回った。世界遺産の中でも自然遺産を見るべく、アンコールワットや、インドネシア、中国、ペルーやボリビアなど世界中を旅した。世界中に溢れるロマンや現地の人の生活はとにかく刺激的だった。自分の固定概念が通用しない逃げられない異国の地でのスケジュールのない旅は、日々プランニングを繰り返す訓練になり、リスクを取ったり、コミュニケーションをとる中で、自分の価値観や器を大きく拡張することになったと彼は話す。
 そこで起こった彼の中の変革のせいかはわからないが、大学2年の頃、地元伊賀で再会した、後に妻となるYukoも彼の変化を感じ、満を持して交際を始めるのだった。

9.Sandy就職活動をする

 世界中の国を旅するのに十分な経験と知識が彼に備わり始めた頃、旅に夢中だった彼は、就職活動という次のステップに気付くのがすっかり遅れてしまっていた。大学3年の冬、「バックパッカーのことならよく知っておりますが、ところでインターンシップって何ですか?」といった状態だった。どうせだったら大学院に進学してみようかとも考えてみた。理由は簡単で、ただ大学教授が権威もあり、夏休みまである楽そうな職業に見えたからだった。決して研究に没頭したかったわけではない。そんな甘い考えはある噂であっさりピリオドを打たれる。
「研究職は今あまり必要とされてないらしい」。現在日本に必要な数の教授は十分に足りており、博士課程前後のポスドクと呼ばれるボジションが、飽和状態であると言う現実。それがわかってきたら、全然ワクワクしなくなったので、12月、潔く遅ればせながら就職活動を始めることにした。
 周りが既にインターンを終えるなか、焦って調べてみたところ、「ETIC」という起業家支援をするNPO法人に行き着いた。単純にインターン探しで訪問したら、今から探すのは遅いかもしれないと言われ、彼は肩を落とした。そんな彼を哀れに思ったかは定かではないが、担当者が彼に紹介したのが、当時まだ30歳で起業準備を進めていた小室淑恵さんの講演会だった。現在株式会社ワークライフバランスの代表を勤める彼女の「日本の女性の働き方を変革したい」という理念は、大学生Sandyに大きな衝撃を与える。働く目的を収入でも権威でもなく、主語を「私」ではなく「社会の女性」に置き、その問題を解決するべく奮闘する彼女を、とにかくかっこいいと思った。ここでも持ち前の慧眼は彼を突き動かす。彼女のことを調べたところ、プレゼン勉強会があることや、創業予定でインターンを募集するかもしれないことがわかった。そうとわかると、彼は持ち前の行動力で一気にことを前進させる。まずはじめにプレゼン勉強会の募集がかかるなり、すぐに熱い内容の返信を打った。まさかその内容がメーリングリストで、漏れなく全員に自動的で一斉送信されるなんて、何とも小っ恥ずかしい事態もあったが、晴れて小室さんにつながるキッカケを掴んだ。
 憧れの社会人小室淑恵さんとの最初の接点は、小室さんの部屋を大掃除するという企画だった。掃除することが嫌いではなかった大学生Sandyは、ただ無心で磨き上げた。気付いたら隣の家の室外機まで磨いていた。決して狙ったわけではないが、その彼の直向きな姿勢を小室さんは見逃さなかった。その後、学生インターンやプレゼンテーション大会の幹事にも選出された。しかし、運営側なんだから1番見ているはず、ということは1番学んでいるのだから、あなたこそがプレゼン大会に出なさい!そして運営こそが優勝しなさい!というものすごいオーダーを彼は受ける。なんともまっすぐに本質を射抜く人だと、流石の慧眼も鳩が豆鉄砲を食ったような心境だった。そして、そうと決まれば、とにかく努力しまくり、人を巻き込みまくり、もちろん優勝してしまうのが、何とも彼らしい。たくさんの人に協力してもらって、チームとして掴んだこの経験はこの先大きな自信となった。かつての狡猾な自分を拭い去り、憧れていた小室さんがキーワードとしている、Win-Win-Winと120%理論、ギブアンドギブという思想や視点はこの頃染み付いたと彼は振り返る。

10.Sandyフレックスマンになる

 学生としての自信を手に入れた彼が選んだ初めての就職先は3Mだった。先に選ぶ軸を決めていた。「自己成長できて、できればヘルスケア系で、ビジネスからのアプローチで日本を健康にしたい」と考えた。彼には日本がネガティブなニュースが飛び交い、何だか元気がない、不健康な社会に見えていた。内定数社の中から、リスクが少なそうで、社員さんも穏やかで、技術もあって、グローバル企業で、、、イケイケな学生時代とは裏腹に、まさかの保守的な自分が選び出した会社だった。入社してみると、やはり緩く、安定を重要視する職場。フレックスタイム制で、直行直帰当たり前で、社用車使い放題。社員にとっていい福利厚生盛り沢山な環境に、妙な危機感を感じる。きっと20年後も30年後もそこそこに営業をして、それなりにプライベートを謳歌していて。そんな安定した職場に自分の細胞は全く疼いていなかった。本気を出さなくても成果は出ている。でも、どこかで自分を誤魔化している気がした。
 悶々としている中、人材系のベンチャー企業から声がかかる。この先取締役になることを約束するので、うちに来ないか?という内容だった。その話を持って、上司に辞意を伝えに行ったところ、鼻で笑われた。入社初の冬のボーナス前ごろ。まだ一年も社会人をしていない状態で、何ができるのだろうと我に帰り、双方に頭を下げ、この話はなかったことした。
 それから一年と半年ほどたった頃、外資系金融機関プルデンシャルからオファーがかかった。養鶏所を営む両親が保険に加入し、担当であった所長さんを両親もとても尊敬していたので、いい会社なのだろうと認識していた。顔合わせの時、採用担当者が何気なく口にした言葉が引っかかった彼Sandyは、その言い方はやめたほうが良いのではないかと、年上の相手に物怖じすることなく素直に進言する。あまりにもまっすぐなその指摘と彼の正義感に感服した担当者は、彼の採用推薦を決意した。ここまで、とにかく保守的な世界に身を置いていた彼だったが、保険業界を変えていくというプルデンシャルの思想と、スカウトしてくれた所長や支社長の人格が決め手となり、転職を決意する。言動も考え方も行動も実績も、とにかくこんなにカッコイイ40代は見たことがないと思った。この人たちと働きたい。自分が40代になる頃、この人たちみたいに、それ以上に輝いていたいと思った。決意した夜、3Mの職場で出会った親友2人にその意向を伝えたら、2人はその決断を心から喜び応援してくれた。自分を後押ししてくれる存在がとても嬉しく、背中を押された。応援してくれたのは、その2人と、ここでもやはり当時恋人だった妻、そして実の弟だけだった。後は全員猛反対。だけど迷いはなく、揺らがなかった。どれだけ否定されても、どんなに苦しくても、湧いてくるのは反骨精神だけだった。そして彼は3Mを後にした。

次回は
エピソード3
11.Sandyプロセールスマンになる 
12.Sandyチームを作る 
13.Sandy支社を作る
14.最重要をみつめて 
15.世界を翔る組織づくり 
16.あとがき
をお届けします

interviewer:masaki
writer:hiloco

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