慧眼の士 〜Sandy砂子貴紀 エピソード1
初めに
この度ご紹介するのはSandyこと砂子貴紀さんです。
3社を経営する傍ら、経営者専門のプロコーチ・複数社の経営顧問としても活躍している彼。普段表舞台にあまり顔を出さない彼の半生を、今回特別に聴かせていただくことができました。友であり、ひとりの男として、父として、仕事人として、尊敬する彼の半生を知り得たことは僕の財産になりました。この記事を通して少しでも皆さまに彼の愛情をお伝えできると嬉しいです。長文になりますがお付き合いよろしくお願いします。
慧眼の士〜Sandy砂子貴紀
目次
エピソード1
1.序章
2.少年Sandy「市場」をゆく
3.少年Sandy 「スポーツマン」になる
4.少年Sandy 「バスケットボール部」に入る
5.スポーツマンSandyの挫折
6.Sandyと優子
エピソード2
7.Sandy 大学に行く
8.Sandy人のために生きる
9.Sandy就職活動をする
10.Sandyフレックスマンになる
エピソード3
11.Sandyプロセールスマンになる
12.Sandyチームを作る
13.Sandy支社を作る
14.最重要をみつめて
15.世界を翔る組織づくり
16.あとがき
1.序章
「支社長の仕事をやめて時間ができたら、家族で世界一周旅行に行こうか。」
病と戦う最愛の妻を少しでも勇気づけたいと投げた言葉に、彼女は瞳を輝かせとびきりの笑顔を見せ言った。
「あぁ、それは嬉しいな。」
その言葉は優しく強く、自分にとって最も大切な物以外、全てを手放す覚悟を決めた彼の背中を押した。これから失業するとか、収入がなくなるとか、そんなことはまったく後回しで、まっすぐ彼自身を求めてくれる妻を、改めて愛おしいと感じた。
「慧眼の士」という言葉がある。「物事の本質を見抜く力、鋭い洞察力を持つ人」を意味する言葉で、彼Sandyこと砂子貴紀はまさにそれだ。これまでにも何度も選択を迫られる場面を経験し、大切にしていたものを手放してきた。生きていれば誰しも選択を迫られる。ただ、彼が自身のそれを消去法と呼ぶ「本質を見極め最も重要なものを選び抜く力」は、私を含め誰しもが知っているだけで自分の糧になる力だ。
この時も手放す時は唐突に訪れる。2018年冬、Sandyは消耗しきっていた。外資系金融機関プルデンシャルの最年少支社長となって2年、仕事は順調に忙しく、後進のメンバーたちの育成もいよいよ大詰めに差し掛かっていた。彼が0から作り上げた組織は、助走をへていよいよトップスピードで目覚ましく躍進を始めていた。その反面プライベートでは、これまで彼を育て励ましてきてくれた経営の師と仰ぐ実の父が、難病を発病し、プライベートそっちのけで両親をサポートするようになっていた。その数ヶ月後、今度は妻が原因不明の突発的身体痛に倒れ、重なる検査入院や療養を余儀なくされた。
3人の子どもたちは、しっかりしてきたとはいえ、まだ小学生と幼稚園児。仕事、家事、育児、全てが彼の肩にかかったこの状況。これまでのやり方ではどうしようもなくなっていた。幸い父の病状も、妻の体調も徐々にではあるが快方に向かい、桜が咲く頃には少しずつだが平穏を取り戻していった。そして、この人生の転機を彼サンディは見逃さなかった。
支社長、夫、父親、息子。どの立場にも大きな責任が伴っていたこの時。彼はただ冷静に、しかし愛情を忘れず、最も大切なものを見極め、手放すものを決める。
2019年3月、Sandy35歳。自身と家族の新たな人生のスタートを切るため、彼は支社長を辞任し、12年間愛着を持って働いてきた会社に別れを告げ、最愛の家族と共に意気揚々と世界へ旅立った。
2.少年Sandy「市場」をゆく
彼の慧眼は、幼い頃から発揮される。時は遡り、Sandy少年時代。彼の夏は、必ず父の仕事の手伝いが思い出のページを彩る。三重県伊賀市に生まれた彼は、養鶏業・食品卸売業を営む父の仕事を幼い頃から見ていた。小学生になると、夏休みには早朝5時に起こしてとお願いし、父の運転する軽トラックの助手席に乗り、伊賀市唯一の卸売市場へと向かう。朝の市場は活気に満ちていて、大人たちの威勢の良い関西弁が飛び交う。そんな中、関東出身で家では標準語を話す父が、少々不自然な関西弁を話し、一所懸命に働く姿は何度見ても印象的で、少年の憧れになった。
「初めてのお使い」が、向いの店へ鶏肉を配達したことから始まった少年Sandyの仕事も、小学3年生にもなる頃には大したもので、1人で荷台を押し、一通りの納品を任されるようになっていた。決して人が足りないからとか、跡継ぎだからとかではなく、純粋に幼い頃から、大人の世界に身を慣らしておくことは良いことだという父の考えから、1人の大人と同じように仕事を任され、大人と同じように接してくれることがとにかく嬉しかった。もちろん、配達先のお客さまがときどきくれる、流行りのチョコ菓子も嬉しかった。
仕事をしていると、良いことばかりではない。無愛想で、どうにも苦手なお客さまも中にはいた。それでも、仕事だからとやり切る。父がそんな彼を信頼し、任せてくれることが、とても誇らしかった。
3.少年Sandy 「スポーツマン」になる
サッカー界はJリーグ開幕に沸き、オリックスのイチローは振り子打法で野球界を震撼させていたその頃、スポーツ少年だったSandy少年はある漫画に魅了される。日本のバスケットボールブームの火付け役となった「スラムダンク」。この漫画が彼の心にもまた熱い闘志の火を灯す。小学生だった彼は、休日ともなると母に頼んで、朝昼2食のお弁当をもち、早朝から日が暮れるまでグラウンドにあるバスケットゴールの前で過ごす。それがとにかく楽しくて、将来はプロバスケットボール選手になろうと考えるようになった。と、ここまではなんとも小学生らしく、微笑ましいエピソードである。
ここから幼くとも彼の慧眼は存分に発揮される。まだ幼い小学生が「中学校受験」という言葉を耳にし始める頃だった。彼はそのまた次の高校に進学するには、もれなく誰もが「受験」というものをしなくてはならず、受験勉強に専念するため中3の夏には部活を引退し、半年以上バスケができなくなるらしいことを知る。中3の夏といえば、漫画「スラムダンク」に登場する、流川楓や仙道彰といった天才たちが、いよいよ頭角を表し始める頃だ。
「プロバスケットボール選手を目指す自分が、そんな大切な時期にバスケを半年以上出来ないなんて!ありえない!なんとかしなければ!」
そう考えた彼が小学生の知恵を振り絞ってたどり着いたのが「中学受験をして中高一貫校に行けば、高校受験はしなくていい。ということは、中学でバスケ部を辞めることなくプロを目指せる!」という、小学生とは思えない達観した答えだった。スポーツ推薦のような淡い未来への希望ではなく、あくまで自分で切り拓ける勉強し受験することで、問題のバスケットブランク半年を回避するという選択が、なんとも彼らしい。
4.少年Sandy 「バスケットボール部」に入る
親に勉強をしろと言われたことは一度もなかったという。当時から勉強は得意だったこともあり、三重県有数の私立中高一貫校に進学し、事前に立てた計画の通りバスケ部に入部する。ただ、一つだけ大きな誤算だったのが、練習環境が劣悪だったこと。中高一貫進学校にはバスケットボールコートのある体育館が一つしかなく、それを絶えず高校バスケ部が練習に使うため、中学バスケ部に割り当てられたコート使用可能時間は、朝練と、週一回だけの午後練のみだった。それ以外の部活動の時間は筋トレや走り込みなどの陸トレをするという内容で、週一回のコート使用日をワクワクしながら待つこの環境に「おかしい」と気づいた時には、陸上部並みの見事なスタミナと筋力が身についていた。
「おかしい」に気づくと彼の行動はとにかく早く、大人子供を問わず、一気に自分の計画に巻き込んでいく。中学1年生の少年Sandyは、嘆願書を作成し署名を集め昼休みのバスケットコート使用許可を取り、朝8時から45分だけしかなかった朝練の時間を朝7時からに開始時間を早め、理想の練習環境を手に入れるべく、以前からあるおかしいと感じた仕組みをとにかくぶっ壊していった。もちろんぶっ壊すことに夢中で、入部当初は想定していなかった事態も彼に降りかかる。自宅から中学まで、片道1時間半から2時間かけて電車で通学していた彼。自分で計画した朝練7時に間に合うように家を出るのは、なんと朝5時。当時朝が得意ではなかったという中学生の彼は、毎朝4時半には起床し、朝5時台の始発に乗り朝練に出かける。毎朝始発に滑り込んでは車内で乗り換えごとにうたた寝するようになった。なにはともあれ、練習環境も整い、部内でのプレイヤーとしての技術も先輩や仲間たちとの関係も良好、しばらくは楽しく、充実した日々を送る。
5.スポーツマンSandyの挫折
中学2年生の冬、いよいよ代替わりを迎える頃から、スポーツマンとなったSandyは、続け様に挫折を味わうことになる。まずはじめに起こったのが新体制発表の時だった。それまで実力・統率力ともに申し分なく、自分が新キャプテンになるだろうと自負していた。しかし、新体制発表の直前に行われた学年クラス対抗の球技大会で怪我をし、責任感がないという理由でキャプテンはおろか、副キャプテンにも選ばれなかった。
「今思えば表向きな理由はそれで、その頃の自分は自己中心的だったり、パスが回せなかったり。今考えるとその器がなかっただけだと思うんだよね。」と現在の彼は当時を振り返ってはにかむ。
挫折とはいえ、ただでは起き上がらないのが彼。何か特別なものはないかと考えついたのが、「スラムダンク」でも存在感のあるポジション、マネージャー・あやこさん。「これだ!」と思った彼は、当時初のプレイヤー兼マネージャーというポジションを自ら部に提案した。これには顧問の先生も半分呆れた顔で、「そこまでいうなら好きにすればいい」とマネージャーの役割を一任してくれた。それ以降の練習メニューや試合データの分析などにあたり、チームに貢献するようになる。
背番号6番兼マネージャーとして、挑んだ中学3年の県大会予選では、例年市予選一回戦負けだった弱小進学校チームだった彼のチームが県大会進出を果たす。そして初めて進出した県大会1回戦で、彼は2度目の挫折を経験する。初戦対戦相手の平均身長は自分たちのそれより10cm以上高く、体格もゴツく、同じ中学生のはずなのに高校生と試合をしているようだった。試合はトリプルスコア(3倍の点数)で惨敗。
半端じゃない負けっぷりと、筋トレや食事で自分なりに試行錯誤をしてきたが、大きくならない自分の体格。努力や技術だけではとどかない、プロバスケットボールへの壁を痛感した彼は、潔くプロバスケプレイヤーを志す道から離脱した。
あんなに好きだったバスケットボールだったが、続ける意味が見えなくなり、自分たらしめるものが何一つなくなったように感じ、立ち止まる。あまりにも圧倒的な差を見せつけられ、挑む気にもなれず、あんなに大好きだったバスケ部も高校では続けず、かといって勉強にうちこむわけでもなく、時間は変わらず進み続ける中、ただ悶々となんとなく毎日が過ぎていった。
6.SandyとYuko
これまでの自分を支えてきたバスケというアイデンティティーを手放した彼に、新しい出会いが舞い込んでくる。朝練に行く必要もなくなった彼は、ぐっと遅くなった通学の電車で、彼の人生においてかけがえのない人に出会う。
毎朝同じ電車で見かける彼女はドアのすぐ脇に立ち、車窓から外を眺めている。ただそれだけ。なのに、どうにも目が離せなくなった。どこまでも透きとおる眼差しと、朝の少し気だるい表情がどうしようもなく美しくて、目が離せなくなった。簡単にいうと一目惚れ。
勇気を出して声をかけ、連絡先を交換するのだが、当時高校生の年上の彼女に高校生Sandyは、恋愛対象として相手にされていなかった。後に妻となるYukoは当時をこう振り返る。
「なんでこんなに一生懸命私なんかに接してくれるんだろう?と不思議だった。」
次回は
エピソード2
7.Sandy 大学に行く
8.Sandy人のために生きる
9.Sandy就職活動をする
10.Sandyフレックスマンになる
をお届けします
interviewer:masaki
writer:hiloco
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