それぞれの「スモールランド」

上映中の映画「マイスモールランド」を観てきた。
観終わって、「ああ、いい映画だったな」と何度も心の中で繰り返してしまった。言葉には出ずとも、5回くらい感嘆のため息として外にも漏れていた。
好きだなと素直に思える作品だった。

感じたことをちょっと書いてみようと思う。
内容はざっくりこんな感じ。

  1. 映画から響く生活の音
    この作品に限らずなのだが、私は生活音が響く映画が好きだ。
    アスファルトに靴底が擦れる音、洗面所で顔を洗う音、ご飯を食べる音、物を出したり片づけたりする音。

    どれも日々生きる中で自分から腐る程だしている音だが、
    映画の中からこういう音が聞こえると、
    切迫感をもってその映画に生きる人間と対峙できる。
    映画の世界が自分の生活に入り込んでくる。

    大きな展開や派手な演出で飾ることがいくらでも出来る中で、
    ごまかさず、寡黙さを失わないまま最初から最後まで観客と対峙する姿勢が私はやっぱり大好きで、マイスモールランドもそんな静かな強さをもった作品だった。

  2. 視点が変われば
    在留外国人を取り巻くこの国の環境が、大きなテーマとして本作品を貫いている。
    社会的なテーマなので純粋に勉強にもなり、なおかつ新聞や報道で上辺の情報だけさらっていた私のような人に対しても現在進行中の容赦ない現実を突きつけてくる。この時点で既に良作ではある。

    作中では、サーリャ(主人公の女の子)とその家族に対する難民申請が下りないという事実が突きつけられるあたりから物語がもつメッセージ性がパワーを発揮し始める。
    家族を取り巻く環境、そして家族同士の関係さえもこれほどまでにかと疑いたくなるほど変貌していく中で、家族に心無い言葉を掛ける人たちや国に対して否応なしに批判・嫌悪の目を向けたくなる。
    「よくそんなことができるな」と。

    でも、その思考が頭をもたげるのに少し遅れてこうも思い始める。

    国や自治体があのような対応に終始することにも、何か理由や原因があるのではないか。
    映画の中で心無い言葉を掛けたように見えた人は、いつかの自分ではなかったか。

    何か問題が起こった時、「困っている人」と「困らせている人」に分けて後者を詰めるだけでいいなら、そもそもこの世に問題など生じない。
    必要なのは、「なぜ」それが起きていて「どこに」問題があって「どうすれば」いい方向に動くのかということに皆が頭を使うことであるはずなのに、
    私たちはどうしてかすぐに悪者を知りたがって、その対象をいかにして詰めるかに思考を巡らせてしまう。

    要は、注意していないとどうも人間の頭はすぐに分かりやすい物語ばかり求めてしまうらしい、ということだ。

    もちろん映画を観て何を感じるかは千差万別。
    しかしながら、私としてはこの作品が新たな単純化の道具になってしまうのは悲しい。
    悪者を探すのではなく、新たな視点の獲得とそれにより生じる新たな悩みに唸りながら根気よく頭を使う。
    それを観る側に与えてくれる映画だったと、私は思う。

  3. ラストカットとエンドロール
    サーリャが洗面台で顔を洗うシーンで、この映画は幕を閉じる。
    もちろんそれまでの展開があるので詳細は割愛するが、
    顔を洗って祈りの言葉をつぶやくサーリャの目力の強いこと。

    何かを決意した時の、前向きな力にも見えた。
    同時に、何かを悟って大人になってしまった眼にも見えた。

    そのラストカットから切り替わって、流れてきたエンドロール。
    その終盤で降りてきたある文言が、最後の最後に私の脳みそをぶん殴った。

    自分は映画として観ていた世界に、現実世界において今この瞬間にも困難に向き合っている人たちがいることをさりげなく、しかし強烈に投げかけていて、衝撃を受けた。

    エンドロールまで見る派でよかったと久しぶりに思った。


    最後までダラダラな感想だったので観ていない人にとっては何のこっちゃだと思いますが。
    映画のタイトルが「ワールド」とかではなくて「ランド」なのもいいなと思っており、この投稿のタイトルも自分なりのリスペクトを込めたつもりであります。

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