見出し画像

そんなに「自分」はすごくない

前に書いた「自分がかわいい」に関係すること。前回の記事では、どちらかというと「自分以外の誰かが自身を「かわいい」と思うことで発生する人間的かかわりの不具合」で文章が終わった気がします(とっても簡単に言ってしまえば「余裕がなくて排他的になる「自分だけかわいい人間」なんぞ気にするなという内容)。

今回は、自分がなったら?という視点。

人間はプライドを持つもの。誰でもそう。その人が生きてきた中での成功体験、失敗体験など様々が混ざって作られてくると思います。

プライドは悪いものではありません。プライドがあったからこそ、困難を乗り越えて来たことがあるはずです。「自分らしさ」とは「プライド」といってもいいかもしれませんね。

しかしプライドだけになってしまうのもダメ。自分作り出した道以外にも、歩む道を生み出す方法を学ばなければ、どうしたって壁にぶつかるからです。

人生、一人で生きていくことはできません。周りに頼ったり、意見を聞くもの大切。それはプライドが傷つくとは関係ないですよね。謙虚に、感謝の心をもって…でも、なかなかそうできないこともあります。「こうやってきたんだ!」という自分のプライドが妙に姿を出すんですよね。

私も進学塾の一教室長。とりあえずは、自分の城を持ったようなもの。なってばかりのことは大変でした。ただ子供と関わっていればいいわけではなかったですから。部下の指導も必要、校舎の飾りつけ、掲示物のレイアウト、受け入れられる生徒数の確定、アルバイトさんの指導、外部保護者の学習相談…。とにかく必死に生きました。

その中で得たもの。もちろん、事務的スキルもありますが、「おれはやれる!」という強い自信でした。そうして、板についてきた教室長になっていくわけです。

しかし、時には厳しい意見を言われるときもあります(もっと上の人とかね)。いわれたときに感じるのは「いちいちうるさいな。ほっとけ。現場も知らんくせに」という反発。自分なりに試行錯誤やっていることに水を差すなと思うんですよね。あからさまに無視するときもありましたね。

でも、いやな気持は消えないんですね。

なぜかって?

それは、言われたことが的を射ていたからです。意見としては正しい。まだ実行できていなかったこと。痛いとこを突かれたがためにプライドが動いたんでしょうね(笑)

いちいちプンプンしていられないなぁ、と思いながら、たどり着いた答え。

それが「そもそも、自分ってそんなに何でもできたっけ?」ということ。もとは何もできなかった一社員。今だって完璧かどうかはわからない。なら、吸収するしかなかろう。まだ得ていないものを。そうして謙虚に生きるようにしています。

「上司にうるさいことを言われてイライラするのも大いに結構だけど、そんなに何でも反発できるほど、何でもできるの?」自分の心の中では、天使に似たような存在が、いつも問いかけてくるようになりました(笑)

多少、気楽に生きることができる私なりの方法です。

(うちは、常識を逸脱する理不尽を言う上司がいなかったことが救いです)