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大人が変わるか、子どもが変わるか

激務だった10月を終えて、やっとこうして記事を書くことが出来ます。

覚えていてくれた方、お久しぶりです。

はじめましての方、はじめまして。まさむねです。学習塾で奮闘しているアラサ―です。

今日は印象的なことがあり、書きとめておこうと思ってカタカタやっています。どうぞどうぞ、ご覧ください。



今日の授業は落ち着きが無かった。どうしたのか?というくらいに(今日は中1の授業)。

ただ注意するだけでは怒ってばっかりになってしまうので、問題演習を挟むなり、ゲーム性を取り入れるなどして何とか授業時間を終えた。

自分的には後悔が残る。

もちろん、こうして書いていると「中学生もストレスがあるんでしょ」「日によって見せる様子は違うに決まっているじゃないか」「子どもたちを思い通りに動かせられるなんて傲慢だよ」などなど、自分を指摘する言葉がどんどん浮かんでくる。

しかし、現場は現場だ。お金をもらってやっている以上、公教育とは違う。ちゃんと「何か」を残さなければ意味がない。

とはいえど、そうも言っていられないときが多々ある。授業を止めてでも、落ちつかせないといけないと気がある。

子どもたちも本当に悪気があっての行動でもないというのが難しい(だいたいは、表に出せないストレスで押しつぶされていることが原因なのだ)。

しかし、注意をすると、それなりの反抗期が返ってくる。昔はそれを真に受けて、生徒自身を傷つける言葉を口にしてしまうこともあった。

今では、そこまで「踏み入れてしまう」ということはないが、集中する空間の創出というのはそうそう簡単ではない。

逃げの発言のようにもなってしまうが、「子どもが変わった」と思ってしまうときがある。「昔はあんなじゃなかったのに」って。そして、「だから、今の○○はダメだ」と烙印を押そうとしてしまう。教える立場に立つ人間は一度はあるかもしれない。

しかし、子どもからの的を射た発言もある。

「先生、昔の方が良かったね」と。

歳を重ねると、経営なり、利益なり、組織としての意識が出てくる。思い悩むのも一人の子どもについてではなく、組織全体のこと。

どうすれば、あの教室に生徒が増えるか

どうすれば、あの高校の合格率を高められるか

どうすれば、自教室のコストを抑えられるか

どうすれば、部下の残業を減らせるか

どうすれば、仕事環境を改善できるか。

どうすれば、どうすれば、どうすれば…。その「どうすれば」は子どもから離れていることが少なくない。

本当にこれでいいのか? 良くはないだろう。

教える仕事をする人間は、本当の意味で「教える」に重きを置かないといけない。

仕事で悩み、人間関係で悩み、変わってしまったのは、やはり大人の方なのだろう。

私たちもそうだが、公教育の先生たちも心配だ。過去と比較してもしょうがないが、子どもたちの質は落ちてきているように思う。

子どもは大人を映す鏡。子どもの質が落ちているということは、大人の質も…ということだ。

個人のレベルで改善できないところまで来ている。世間もそれを理解し始めた。

本当に子どもの前に立つ人間として、充分な環境がつくられることを切に願っている。