公務員を辞めた -鮨屋のブラウニー-
人は安定を求め、停滞に退屈する
何も知らない新しい街で暮らすという事が、人間にかなりのストレスを与えることに、引越しをする度に気づかされます。(10年で7度。強豪校かよ)
ただ、引越しをして1ヶ月も経つと、少しずつその環境と生活のリズムに慣れてくるものです。
そして半年を過ぎると、今度はその環境に飽きてきます。家で作業をするよりもカフェで作業をした方が捗る現象なんかが起きてきます。
終いには、もっと便利で、広い部屋に住みたいなと思ったりします。
なんと人間は環境に影響を受け、適応する生き物なのでしょうか。
人間とういうのは不思議なもので、安定を求め変化を避ける一方で、
停滞から抜け出すために変化を求めながら生きています。
折れ線グラフにしてしまえば、安定も停滞も同じなのに。
先日あるラジオで「仕事ってオレにしかできないことを、誰にでもできるようにして、最終的には毎日、毎年、ルーティンとして同じように繰り返していく事が生産性を上げる事だよね」とある人が言っていて、「でもそうやって安定することを目的としていて活動してきたのに、いざ安定してしまうとそれは停滞と呼ばれ、最終的には飽きて退屈するんだよな。」とある人が続ける訳です。憂鬱です。
なんともワガママな生き物な訳です。
人は忘れ、比較する。
人間には忘れる機能がついています。これはある側面から見れば、変化を促す、つまり進化を促すために遺伝子に組み込まれていると言ってもいいのかもしれません。まさに動的平衡です。
そして人間は比較することでしか、そのモノの価値を測れないそうです。
ありふれた日常を愛おしく思えるのは、それが過去になり比較できるからです。都内の人の多さにはうんざりしていましたが、私は今この文章を割と人の多い都心部のカフェで書いています。
それは、人の少ない田舎で高校生と生活することが日常になったからで、時に数時間でも環境を変えることはその他の日常に彩りを与えてくれたりします。甘いものを食べたら、しょっぱいものを食べたくなるものです。
我々は安定を求めながら、変化を渇望し、慣れて、忘れて、比較する。
そうやって生きています。
鮨屋でブラウニーを出す労力
人間には”慣れる”や”飽きる”という機能がついている訳ですが、もし飽きていなくても、むしろ変化を恐れていたとしても、意図的に環境を変えなければならないタイミングがあります。
それは”何を頑張るか”よりも”どこで頑張るか”の方が重要なタイミングが人生では来るからです。
パティシエが鮨屋で働き、大将にデザートでブラウニーを提供しないかと提案をする。なかなか大将は納得してくれない。タイミングを図って何度か提案するが、次第に人間関係も悪化していく。それはどんなにブラウニーが美味しくても、どんなにパティシエとしての能力が高くてもです。
その人は、思う存分自分の能力を発揮できる環境に身を置くべきです。カフェや洋菓子店で働くべきです。当たり前です。
頑張ってはいますし、膨大な労力を割いています。
でも、ダメです。むしろ、だからダメなんです。
世の中の多くの悩みは、この当たり前のことのような気がします。美味しいブラウニーを作るための努力はしますし、教わることができます。そして周囲の環境に言い訳をせずに、置かれた場所で咲きなさいと。
ただ、人は環境に大きな影響を受ける生き物です。
みんな一生懸命に鮨屋でブラウニーを出そうとしています。
「自分ができること」と「必要とされること・求められていること」が一致することは、やりがいや、幸福の一つの要素です。
なので、「必要とされること・求められていること」をやるか(合わせるかたちで)、自分ができることを発揮できる場に環境を移すかのどちらかです。この擦り合わせができていない状態は非常に苦痛です。
同じスシ屋でも、全国大型チェーン店、ローカルチェーン店、高級鮨屋、街の寿司屋、テイクアウト専門店と様々です。目的も違えば、働き方も、スシ屋であること以外は全てが違います。
都立高校には都立高校の良さが。公務員には公務員の良さがあります。
でもそれは逆も然りです。人間が比較することでしか測れないのだとしたら、やってみる以外に選択肢はありません。
この場を借りて改めて、都立高校時代にお世話になった方々ありがとうございました。
鮨屋ではなく、カフェでブラウニーを出してみようと思います。
私の作るブラウニーは本当に美味しいのでしょうか。
菅野雅之
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