普遍は実在か、名前か。-スコラ哲学-

中世のヨーロッパの議題だ。
普遍とは、一般的に誰もが納得できるとかそんなところだと思う。
この記事を書いているのは僕という人間だし、読者という人間だ。

その僕という人間と、読者という人間、この共通事項は人間だ。
故に人間は普遍的なものだ。

誰から見ても共通なもの。
例えば三毛猫のタマと黒猫のクロは違う猫だけど、どちらも猫であり、これは普遍的なものだ。
タマであれ、クロであれ、同じ猫だ。

僕:人間、読者:人間→普遍的なもの→人間 
人間の場合
三毛猫のタマ、黒猫のクロ→普遍的なもの→猫
猫の場合

僕たちが認識している、人間とか、犬とか猫とかだ。

この普遍的な認識が無ければ、生活はできないだろう。

家族であれ、他人であれ、普遍的な人間であるから、猫と同じ扱いをするわけにはいかない。

普遍的な認識を利用し、
それを必要に使い分けて生活している。

では、その普遍とはなんなんだろうか?
人間の普遍とは?犬の普遍とは?

共通として言える、
その普遍は、
実態として存在するのか?それともただ僕たちが勝手に解釈してそれを普遍と呼んでいるのか?

そんな論争が、中世のヨーロッパでは行われ、それを普遍論争と呼んだ。

まあ、なんてくだらない事で言い合いしているのだろうと我々日本人は思うかもしれないが、
中世のヨーロッパでは、
キリスト教が絶対的な価値基準だった。
それゆえに普遍的なものについての論争が勃発された。

ではなぜキリスト教に価値があると、
普遍論争が起きるのか?

それを考えるには、タイトルの「実在」と「名前」についてと、旧約聖書のアダムとイブの話が関係している。

アダムとイブによって、
人間の罪が始まった。
旧約聖書の中にあるアダムとイブの話はこうだ。

アダムとイブは、神によって禁じられた楽園の禁断の果実を食べてしまった故に、その断罪として、人類は寿命という、呪いをかけられてしまった。

我々の命に限りがあるのは、
アダムとイブが禁断の果実を食してしまった事に始まっている。

何故アダムとイブが勝手に知恵の実を食べたのに、我々人間がその罪を被らなければならないか?

それは、普遍的な実体としての人間が存在しているからであり、我々はアダムとイブが犯した罪によって、同じ人間として罪を償わなければならない。
いわば人類の連帯責任である。

自衛隊であれば、一人がヘマをすれば、他の隊員が連帯責任で、腕立てをしなければならない。

それは、そのヘマをした一人を除いた、ほかの隊員が同じ自衛隊という普遍的な価値の一因であるからだ。

しかし、自衛隊でない我々はその連帯責任を取る必要は無い。

何故なら自衛隊という普遍的な概念の一因では無いからである。

だが、普遍的な問題というのは、もっと大きな問題を包み込んでいる。

例えば普遍的な人間という実体や、自衛隊という実体がないので有れば、
アダムの罪は我々の罪では無いし、自衛隊の一因であっても、その連帯責任は存在しないことになる。

普遍的ものが実体として存在しないので有れば、アダムとイブの罪も、自衛隊の腕立ても全く関係ないのだ。

アダムとイブの罪が存在しないなら我々は関係ないというわけにはいかない。

普遍的なものが実体として存在しないとなると、罪なるものも存在しない。
これがどんな結果をもたらすか。
つまり、やりたい放題である。

現在でいえば、人に危害を加えれば、それが犯罪という形になって、法によって裁かれるが、

中世では、その法や罪は神によって規定されていた。

だから、その罪が、普遍的なものが存在しないとなると、色々具合が悪い。

つまり、中世までは神によって法や罪が規定されているのに対して、現在は理性が先立って法が規定されている。

そう考えれば、普遍的なものがいかに重要かがわかる。

そして、この問題のもう一つの側面として、神が人間を救済しないという帰結に至る所である。

上記でも記載したように、キリスト教の価値はヨーロッパにおいて絶対的な価値を誇っている。
そしてキリスト教における神が、原罪(寿命)を全うする事によって救済される、という事項が、普遍論によって揺らいでしまうのだ。

そう考えれば、人間が寿命を全うしても救済されないというのは、当時の人たちからすれば大問題である。

普遍的なものの価値定義によって、自分達が天国に行けるか否か決まるのだ。

普遍的なものは存在する実在論:アンセルムス

上記を見ていけば普遍的なものは、神によって規定され、その時代にいきる人間が、普遍的な価値尺度によって生活している事がわかる。


アンセルムス

カンタベリーのアンセルムス(羅: Anselmus Cantuariensis, 1033年 - 1109年4月21日)は、中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまでカンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会で聖人。日本のカトリック教会ではカンタベリーの聖アンセルモ[1]、聖アンセルモ司教教会博士[2]とも呼ばれる。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。
wiki

中世の神学者及び哲学者のアセンムルスは、普遍的なものは存在すると主張した。

いわば、実在論である。
普遍は存在する。

人間には人間の、犬には犬の普遍的な実在が存在する。
それがアセンムルスの主張である。

それが正しければ、我々人間は、アダムとイブの原罪を引き継がなければならない。

アダムの罪は僕たちみんなの罪である。
つまり連帯責任だ。

実在論が揺らいでしまうと、ゴマンという数の人間の価値が崩壊する。
ここまで読めば、多少想像力のある読者は、くだらないとは考え無いはずだ。

この実在論は、プラトンの言うイデア論に通ずるものがある。

イデアとは、人間にはそれとは別世界に人間のイデアが存在し、人間であれ犬であれ、そのイデアを模範に作られた模造品でしかない。

いわば現実世界やそこに生きる者たちはイデアの影だ。 

イデアや、普遍的な存在を認識する事ができないとプラトンは考えたが、
ではなぜプラトンはイデアを存在すると考えたのか?

例えば、僕たちは白鳥を見ようが、鳩を見ようが、雀を見ようが、それを「鳥」と認識する。

違う生き物であっても、それを共通の普遍的な生物である鳥と認識できる。

他のパターンで言えば、魚をみて鳥だとは思わない。
逆もまた然りである。
言葉の壁を越え、鳥は鳥、魚は魚、美は美と、共通認識できるのは、それをどこかしらで知っている必要があり、
全く関係ない他人が、共通項として、それを美しいとか、犬であるとか言えるのは、それを知っている必要がある。
そして、その共通項がイデアだ。
全くかかわりの無い他人が同じものを共通認識できるのはイデアによるものなのだ。
この共通の事物を赤の他人が認識できるのは、実在するイデアのおかげだ。

この模範的なイデア及び、普遍的な実在が存在するという考え方が、普遍論の屋台骨となった。

人間という概念は、音でしか無い。:唯名論ロスケリヌス

人間や、犬猫といった個物、それの呼び方は、ただ単に音でしか無く、実態としては存在しない。

それを強く唱えたのがロスケリヌスだ。
実際に初めて唯名論を唱えたのはロスケリヌスでは無いが、彼を唯名論を主として知らしめたのは恐らく他にある(三位一体論とか)がそれは今回言及しない。

割と現代人及び、日本人は唯名論その考え方がしっくりくるのでは無いだろうか?

しかし、先にも述べた通り、罪という概念は実在的に存在するという普遍を裏付け、決定する。
その普遍(プラトンでいうイデア)を模範に人間が形作られているのが実在論だから、唯名論はその逆だ。

普遍という実在が存在しないというのだから、実在論からすれば由々しき事態なのだ。

唯名論とは

人間とか、犬とか猫とか、それを認識しているのは、言語による音によってのものであって、実体的に普遍的なものが存在するわけでは無い。

この考え方を引き金に普遍論争が
起こったと言っても過言では無い。
一般人ならともかく、神学者の立場の人間が、キリスト教の根底を揺るがす発言をしたのだから、大問題だ。

普遍なるものは実在として存在せず、個別的に存在している。

普遍≠実在
普遍=音


ものだけが存在していると考えた。
例えば、三毛猫のタマを形作る猫の普遍的な価値は存在しない、その代わりに、三毛猫のタマは個として存在している。 

概念として存在する普遍:概念論アベラール

アベラールはロスケリヌスと同じく唯名論支持者だが、少しニュアンスが変わる。

普遍≠実在
普遍=神が思い浮かべる概念。

アベラールも唯名論として、普遍なるものは、実在しないという考えだが、その普遍は神の頭の中に存在すると考えた。

神は絶対なる存在である為、彼らの頭の中で考えている事であっても、実在する必要はない。

人間という普遍は、実在として存在しないが、神の頭の中で存在しているわけだが、
神故に空想であってもなんら問題無い。

普遍は実在しないが、神は万能故になんら問題ない:唯名論オッカム。

神学者のオッカムウィリアムも、
唯名論を推した。
彼も異端扱いされた問題児なわけだが、
彼は神の特質を利用して、唯名論を決定づけた。

普遍的なものは実在として存在しない。
人間は寿命を全うしたとしても救われないというのが、唯名論によって浮かび上がる。
しかし、オッカムはその神の万能な特質、
教義というのは人間側の問題であり、神にはなにも関係ない。
つまり、教義を無視したとしても、神は人間を救うというのだ。

些か詭弁に思えるが、確かにそうかも知れない。
教義、つまり人間側の論理や規制で考えれば神は救ってくれないかもしれないが、それは人間が勝手に決めつけたものであるから、神には全く関係ない。

故に普遍的な実在が存在しなくてもなんら問題は無いわけだ。

普遍は個物に内在する: トマス・アクィナス

アリストテレスの形相と質量はセットに存在している。
この考えに近いのがトマスだ。
アリストテレスはプラトンの弟子だが、イデアの存在、つまり別世界に存在する普遍の否定した。

トマスは、実在論と唯名論を統合させたような思想であり、個物の中に、普遍的な実在。

三毛猫のタマには、ネコという普遍が存在している。
まず、タマという存在があり、その後に猫という本質(普遍)が存在する。

唯名論と実在論の結合というより、実在論に近いかもしれない。

後の哲学者ジャンポールサルトルの「実存は本質に先立つ」に似ている。

どちらにせよ、実在的な普遍は存在するのだから、神は最終的に人間を救う事になる。

今日は以上だ。

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