人生はクソゲー論(ショーペンハウアー「自殺について」引用)
キリスト教では、自殺は罪であり、神への冒涜だという共通認識がありました。
しかし、その罪には、なんの根拠も無い事、その罪に対して説明がされていない事を、
ショーペンハウアーは、非難した。
自殺は罪である→×
自殺は辞めた方がいい→○
ショーペンハウアーは、キリスト教の自殺論を避難したが、
自殺については辞めるべきだという意見をもっている。
キリスト教が「汝なすべし」で自殺を否定するのに対して、
ショーペンハウアーは、哲学論理体系で、その難問を解こうと考た。
その為には、まず「生とは何か」
というところから考えた。では、彼の考える生とはなんなのであろうか。
今回はそれだけに目をむけよう。
生への虚しさは、退屈や、享楽から来る虚しさ。
人間は所詮、食欲、性欲、様々な欲望に支配された有機体である。
欲望事態は手に入りづらいが、仮にそれが簡単に手に入ったとしても、「退屈」や「飽き」がやってくる。
この退屈こそが人間の人生が空虚なものだという何よりの証拠である。
人々は何かに没頭している時に幸せを感じる。
それはいわば、「生を忘却」している状態である。
たちまちその没頭が停止すると、退屈と焦操がその人を襲う。
「生を忘却」する事が幸福だとすれば、逆に言えば、それを認識している時は、退屈に苛まれ不幸になるともいえる。
何かしら有意義で無ければならない、
という共通観念が、
人々を更に不幸に陥れる事項であり、その忘却のため、次々と目標を打ち出し、常に退屈を忘却する為に努力する。
目標があれば、それが自らを満足させてくれるように感じるが、実際その目標の地点に立てば、その幻影はたちまち消えてしまう。
性的快楽でさえ、入手困難な快楽であるものの、それが手に入ればすぐに興味が失せてしまうものだ。
そして、なにかに熱中していない事、単純な生へ引き戻されれば、生への内容が無である事を感じてしまう。
金持ち連中が、いいものを食し、美女を侍らせ、豪邸に住もうとするため努力するのは、生への本質的な虚しさを越えようとする行動に他ならないわけだ。
人生とは、最悪な苦行。
人生においては、その内容が無い事に置いても最悪なのに、
それに上乗せするように、不安、恐怖が入り混じっている。
憂鬱なのだ。
それでも尚、生きなければならないのは、何故だろうか。
上記にも、書いたように、忙しさが消えると、退屈が現れる。
生には本当の内容がなく、ただ欲望と幻影とに突き動かされる有機体なのだ。
忙しさが停止すれば、生の虚しさがはっきり現れる。
人間は幻影を追いかけたところで、
好色、多淫によって立脚している生物であり、
それらが立脚するため生殖がある。
身体の作りに対して、
頭でっかちになってしまったのだから、尚タチが悪いのだ。
幻影を追いかけ、目標を掲げ、それらを意欲したところで、それは生への忘却であり、
意欲する事が苦悩の始まりだが、それを辞めるわけにはいかないから、立て続けに悩み続けるのである。
なんとも具合が悪いのが常なのが人生というやつだ。
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