自由は刑罰だが、自らを積極的に拘束し、道徳的に自らを曝け出して自由罪を償う。道徳とは規定であり、自らの自由罪に対しての克服剤、結果実存を肯定する麻酔。そういう意味では道徳は永遠である。

我々が何故道徳に価値を置くか。
それはニーチェの言うルサンチマンでもあるし、サルトルのいう「自由は刑罰」でもありゆる。
結局のところは自己保身が集約した結果であり、実存を肯定する克服剤だ。
自己が社会の関係性である以上、そこに貢献すれば自己保存を促す結果としてその為に生きる事さえできる。
他者にみざされる結果の自己保存であり、不可逆的な諦念感情であり、ニーチェでいう「力への意志」や「権力への意志」の諦念だ。
サルトルでいう自由への不安の肯定として道徳は君臨する。
力への意志が出現した時、それへの抑制は、自己保存や、保身の集合数であり、道徳それ事態を崇拝する事は、本能への反対者として確立する。
どんな人も本能それ事態を毛嫌いするのは、自己保存が脅かされることと同時に、それを否定すれば自己保存を確立可能であり、大多数であり、反逆的なものに対して大多数の腕力によって抑制できるからと考えるからだ。
誰も彼も自分以上のものは認めないし、そこまで引きづり下ろすのがルサンチマンだ。
そして、その大多数の点(平均)であると認めなくてすみ、結果が多様性という夢まがい事である。
人が権力を獲得する際には力が本来獲得する以上、大多数の平均として権力への意志を獲得するのが多様性であり、「かつ」みずからを大多数より他の世界へ置く事によって、自己を確立する。
多様性逃避先で自らの闘争相手と出会えば、多様性というカテゴリーを再度活用し、闘争から逃避し、それを否定されれば「多様性社会」をさけんで畜群をなし、権力を獲得しようと試みる。

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