物語に殺される

「水が上から下に落ちるだろう?」
「うん」
「上から下に落ちるために水が存在すると思う?」

 これはとあるインターネットの知人との会話で、今でも熾烈な印象を僕に植え付けた。これが水という名詞を用いられているから、そんなことは当然であろうと考える人は多いと思う。しかし、これを人に置き換えると途端に我々は「物語る存在」に成るのだ。
 例えば慣用句的なもので挙げるとしたら
『趣味とかないの?楽しくないのになんで生きてるの?』
 この発言に我々が違和感を覚えないことこそが危機の本質なのだ。つまり、我々は「幸せに“なる”」ために存在していると素朴に考えるのだ。水の例に立ち返ってみよう。水とは元素記号ではH2Oだの飲めたりするが、飲むためにあるわけでもなく、H2Oであるわけでもなく、ただそこに“在る”のだ。それは私たちに同様に言えて、偶然生じたモノ(この言い方も作為的で誤解を招くが)でありモノは単にそこに在るのだ。
 なるほど君はラディカルな唯物主義者なんだね、という雑な解釈もある。が、むしろこれは東洋的な自然観への回帰ある。むしろ自然主義・科学主義者ほど物事の意味を問う傾向にある。コスパ・タイパ思考とかまさにその産物であり、この行為は私にとってこのような役割・意味があってそれを手に入れるための最小限の手間に抑えようということだからだ。
 この、科学が発展しが唯物化していく中で人間は何故か「意味」という全く蓋然性のない概念への信仰をより深めていったのだ。「意味」が我々から奪い去るものはあまりにも多い、何故なら最初から定義がされてないことで快楽をメタ化し、メタ化しながらも向き合うか冷めるかの2択を突きつけられるからだ。
 私と同じく物語に囚われ意味に侵された人間に残された最後の抵抗は、それすらもただわたしたちは水が上から下に落ちていくように、囚われ侵されたままただ「在る」ということを思い出すことしかないのだ。これはまさに矛盾した解答である。物語に囚われた私は意味を見出すのに、私はただ「在る」と私を考えるからである。
 しかし、それは理性への単なる盲信に過ぎないのだ。我々の精神は矛盾に満ちているし、夕焼けは美しいし。精神も理性もつまりその程度のもので、矛盾し続けて誤ることすらもまた意味は無く、私たちはそれでも自分を綴り続け勝手に自分を空虚にしていくのだ。
 


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