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【ショートショート】悪魔の誘い

 無謀な試みであることは分かっている。神の御業だ。人が為していいことではない。そんなことは分かっている。悪魔の囁きか、悪霊に取り憑かれてしまったのか。そんなことは分からない。否、悪魔などという非科学的なものがいるならば、それは彼女を殺した奴等のことだろう。

 彼は科学者だった。生命の起源を探究するひとりのつまらない学者だった。ゆえにこの無謀な試みを実行しのうと思ってしまったのか? 生命とはなんたるかを研究し続けてきた身だからこそ? 嗚呼、そんな馬鹿な。そんな馬鹿な。私は科学に身を捧げてきた者だ。こんな馬鹿げたこと、どうして本気でやろうとしているのか理解できない。死者の蘇生など、どう考えても無理な話だ。俺はどうかしてしまったのか。

 それでも彼は妻を諦め切れなかった。優しくおっとりした妻だった。別段美人だった訳ではない。けれど彼にとっては誰より美しい妻だった。心根の優しさは顔に出る。こんなつまらない男を選んでくれて、なんとも優しいはにかんだ笑顔を見せてくれた。そんな女だ。長年連れ添い、ふたり歩んできた。どうして彼女を諦められよう?

 彼の目の前には彼女の亡骸。可哀想に、事故で生命を落とした彼女は身体の至るところが無残に傷付けられている。せめてこの傷だけでも綺麗にしてやりたいと思っただけのはずだった。実現できるはずがないと思っていた。なのになぜ、私は彼女の亡骸を、自宅に連れ帰ってきてしまったのか?

 嗚呼、駄目だ。諦め切れない。諦め切れない。科学は未だ万能ではない。科学者だからこそ痛いほど知っている。科学では彼女を甦らせることは出来やしない。そんなの誰よりも分かっている。では、この書はなんだ? 誰が用意した? 悪魔の仕業だ。悪魔が俺に囁いたのだ。奥さんを蘇らせたいんだろう? ならこの本を使えばいいよ……。彼にそう嘯いたのは一体どこの誰だったのか?

 震える手で開いた本にはラテン語がびっしり綴られている。そして魔法陣。怪しい宗教の信者がやることだ。これは悪魔を呼び出す恐ろしい業に違いない。がくがくと膝が震えている。けれど、けれど。嗚呼、頭では分かっているのに、目が文字を追ってしまう。この本の示す通りにやれば……妻が返ってくるかもしれない……。

 恐ろしいことだ。消えた生命は戻ってこない。そんなの頭では分かっている、誰よりも俺は知っている! でも、でも! 嗚呼、私はおかしくなってしまった! 返ってきてくれ、帰ってきてくれ。私の愛しいエリザベス。たったひとり、生涯を誓った我が妻よ……。

 彼はその場に崩れ落ちた。零れる嗚咽を堪えることができなかった。いい歳をした男が、薄暗い部屋でひとり泣いている。傍らの妻は、いつも優しく声を掛けてくれた愛しい人は、ただただ静かに眠っている……。

 やがて彼は立ち上がった。膝の震えは大方治まっていた。治まってしまった。きっとそうならない方が良かった。誰かが部屋に乱入してきて、どうしたの昭利さん、と彼を立ち上がらせてくれれば良かった。けれどそうはならなかった。彼はひとり立ち上がった。そうして、再び本を見る。書見台に置かれ、ある頁を開かれたなんらかの魔術書。指示された魔法陣は既に部屋いっぱいに記してある。彼がそうした。震える手と脚で、彼は準備を済ませてしまっていたのである。

 ならば、あとは最後に呪文を唱えるだけだ。

 彼は泣きながら最初の一文を読み上げた。なぜ泣いているのかなど既に分からなくなっていた。妻を亡くして悲しい。もう一度彼女に逢いたい。彼女にもう一度抱き締めて欲しい、彼女の温もりを感じたい。こうすれば、もしかしたら、万にも一つ、もう一度それが叶うかもしれない……。きっと彼は泣き疲れて正気を失くしてしまっていた。読み上げる声は淡々としていた。指示された通りに両手をかざす。右手に握るは実験用のナイフ。それを、己れの左手に押し当てる。ぽた、と流れた血が魔法陣に滴り落ちた。

 瞬間、魔法陣が輝いた。ああ、私は、取り返しのつかないことを……。頭の片隅、未だ消し去れなかった正気がちらと思う。けれどもう遅い。もう、いい。疲れてしまった。彼女のいない世界をたった一日味わっただけで、彼は疲れ果て、弱り果ててしまっていたのだ。

 彼女の身体が光に包まれる。白く眩しい光はひとたび紫に色を変え、次いで緑の光に変わっていった。彼女の姿が見えなくなる。彼はただ呆然と、光溢れる光景の前で立ち尽くすことしかできなかった。

 やがて光が消えていく。現れた彼女は傷が癒えているように見えた。ふら、と一歩彼女に歩み寄る。彼の左手は自らの血で真っ赤に濡れていた。嗚呼、エリザベス、エリザベス……。

 ふ、と。彼女の瞼が持ち上がった。

 瞬間、彼はまたしても泣き崩れた。どっと押し寄せた感情の正体などもう分からない。嗚呼、嗚呼、エリザベス。私の愛しいエリザベス。泣きながら彼は妻を呼んだ。それしか彼には叶わなかった。愛しさと恐れと、悲しみと、後悔。ありとあらゆる感情が、彼を押し潰してしまいそうだった。

 ぱら、と音を立てて頁が揺らいだ。風もないのに、他に誰もいないのに、どうして頁が捲れたのだろう。けれど、嗚呼、もうそんなのどうでもいい。全てが手遅れだ。俺は悪魔に身を売った。妻は返ってこない。そんなの本当は分かっていた、分かっていたのだ……。

 彼女が、彼女の見た目をした者が、彼をそっと抱き締めた。その冷え切った掌の感触が、彼をより深い絶望へと落としていった。

1月5日/ラッパスイセン
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