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追記 あさつゆに 違(たご)ふことなき 影を見て 疼くがごとく 胸高鳴りぬ



あさもやに 佇む影に 魅入られて それよりこゝろ 花いだきけり

我が裡に 刻み彫らるゝ 花影を 霧立つ原の あさつゆにみる

あさつゆに たごふことなき 影を見て 疼くがごとく 胸高鳴りぬ



*** *** *** 

最初の歌は、恋に堕ちた時。

魅入られてを、見つめられ とすべきか 迷いました。


魅入られては、見射られて というイメージが重なっています。

次の歌は、それ(恋に堕ちて)からもう随分時間が経過し、

初恋のような昔の恋を あさつゆ の中に偶然見出し、思い出すような・・・


最後の歌は、そこで思い出した初恋はどんなものであったかを、疼くように高鳴る と表現してみました。


二番目の歌の 刻み彫られている という言葉でも

その恋が、その人の心に深く存在していることを表現しています。


でもこのように歌っているからといって、


私の 恋の歌 ではないです。


花影 という言葉を用いているのは、、、、

男性が女性の面影を胸に抱いている っというものを描きたかったからです。

最近ワタクシ、男女だとか、自と他の境が透けとおってしまっています。

時間軸と空間軸の中を行ったり来たりして、

みて、きいて感じたものを、 依りましが如く 言葉に紡いでいるようなのです。

この歌のイメージが浮かんだ元、きっかけとなったものには、

初々しい淡い恋されど、それは心に焼き付けられていて、

色褪せることのないような、追い求めるような恋(乞ふ)心がありました。

そしてそこへ、私の大好きな伊勢物語 第六段 芥川 の歌のイメージ

やっと手に入れた・・・かと思ったら、

あっという間に手のうちから溢れ落ちていってしまった・・・

”あさつゆのような女性”っというイメージも土台にはあるんだろう


っと思っています。

私が作った歌っといっても、私がいままで見聞き、読み、してきたものが、

どうしても、そのイメージの中に幾重ものフィルターとなって重ねられているとおもいます。

なぜなら、それは疑似体験であっても私の歩んだ道と、重なっているからです。

(私は夢でみたものでさえ、現実とあまり区別していない者に御座います。

この辺のことはうまく説明できませんし、

説明すればするほど、奇人変人狂人と思われますので。)

そういう想いがあるので、私はあまり著作権というものを厳密に感じておりません。

私たちは知らず知らず、先人の文化・文明・芸術の恩恵を与えられて、物を作り、そしてそれをまた、後の世の人に与える使命があるのだろうと、

そんな風に感じているからです。

(私の輪廻転生というものの捉え方は、因果・因縁故というのではなく、

悠久の年月、時代の体験や、感情、想いを共有できるハードディスクに、

linkされた個々のデバイスといった風なものです。

・・・これまた奇人変人狂人噺ではございますが(恐縮)


2014/10/16記

2023/01/08多少手直し

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