カラス・・・否、人はなぜ泣くの?
カラス・・・否、人はなぜ泣くの?
涙の数によって
悲しみによる涙なのか、
あるいは せつなさによる涙なのか違いがある
という人がいるらしい。
悲しみの感情をこらえ、それを耐え忍び、
そっと頬を伝うように忍びやかに流す涙、
5・6粒?の涙の中に複雑なる辛苦の想いを凝縮させたものが、
”せつなさによる涙”であり、
感情のままに振舞うことができない
シガラミを抱えた大人でなければ味わえないのが
せつなさ という情緒・・・
ということだった。
私が涙を流すのには、勿論いろいろな理由があるのだが
私が涙を流す感情の横溢の元にあるのは
悲しみや切なさというよりは 慟哭のような、嘆き・叫び に近いもので
それは 私を含めた人という生き物に対する”嘆き”であり、
それはまた 人としての生(せい)に対する”叫び”からのように思う。
私の涙は 誰という特定の人物が原因だったり、ある人に対するもの、
何かという特定の事柄や、ままならぬ自分の立場や、状況に対するもの、
というよりは、
”己に対する嘆き・人として生きることに対する叫び”で、
叫ぶ相手は言うならば、天とか神とか、サダメとかいう言葉で表されるもの
であったように思う。
悲しみや せつなさ という感情から涙を流したのであっても、
”なぜ性懲りもなく、こんな想いを繰り返すのか”という 己に対する嘆き であり、
”なぜ人はこんな感情を抱きながらも、生きなければならないのか”という
憤り だったように思う。
そして、最近はようやく
”涙を流すことは、人として生まれてきたモノのサダメ”
という処に行き着いた。
泣いても、叫んでも、いくら逆らってみても ”涙はおのずと出てくるもの”っと。
瞳に涙が溢れ、頬を伝うのは、私ではなく、私の身体であり、
私が泣いているのは 今であり、過去でも未来でもない。
昨日私が泣いたとしても
明日私が泣くとしても
それは
今、私の瞳から涙が流れている という " ひとつの現象 にしか過ぎない"
と認識するようになった。
私はもう、
己を、人という存在そのものを ”嘆く” ことも、
人として生を受け、ここに存在することにもがき、反発して ”叫ぶ” ことも
しなくなったのだ。
(2013年9月記)
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