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今日のイラスト:猫(母作)

🎈今日のイラスト:猫(母作)

母がデジタルイラストデビューしました!!
母は絵がとても苦手らしくて子供の頃からずっと「画伯」と言われてきたらしいです。

私も最初絵を見たときは、手足と体のバランスも現実ではありえないような構造になってるし、尻尾は背中から生えてる・・・!!!ヒエェ!!と思いました。それと比べると、自分の絵はまだバランスも取れてるし良い絵だろう・・・と安直にそう感じてしまいました。

だが、ここで私は気づいてしまったのです。

「私はこの絵を描くことができない」

と。

最近は毎日お絵かきをして、頭と体のバランスの比率だとか、遠近法だとか、1~2ヶ月前よりも色んな知識を得て、少しだけ「それっぽい」絵を描くことができるようになりました。

一方で、私はそれ以前に描いていた、バランスも遠近法も何もかもデタラメな絵が「描けなくなっている」ことに気づきました。

そして、その描けなくなった「技術も世界の当たり前も何もない自由な絵」の中に、味わいやエモさ、その人にしか出せない表現が存在している事実に気付いてしまいました。

私は絵について勉強することによって「一般的な表現を得て、自由を失った」のです。「それっぽさ」に縛られることになりました。

体をかけば、それらしいバランスになるように修正する。
背景をかけば、それらしい色になるように合わせていく。

私には「正解」と「不正解」ができたのです。

その事実を強く感じました。
(まさか母のあの絵からこんなところにまで気付かされるとは・・・)

ただ、私はその事実を否定し変えるつもりはありません。
何故なら私は「一般的な表現・それっぽさ」が好きだから。
私の中の「正解」は憧れているかっこいい絵。そこを目指して絵を練習している。そこに向かって走ることが楽しいのだから、それはそれでいいんだ。私は好きでそれに縛られている。

それに、この気付きで、大切なことは既に思い出したんです。

それは「どんな絵も、その絵にはその絵の、その人にしか描けない良さがあり、それも一つの正解なのだ」ということ。

私には明確な「正解」があるけれど、それ以外の「別の正解」が同時に存在してもいいということ。その「別の正解」は、もはや私が絵を描こうと線を引いたそれだけで正解となるということ。

それを感じられて、すごく勉強になったし、絵を描くのがさらに楽しくなった。
お母さん、素敵な絵をありがとよ!!!!!!!!🐱


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