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言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(五)丸山健二

 可憐にして健気なスノードロップが、残雪を割って花を咲かせながら、日陰のそこかしこでさりげない笑みを浮かべています。そして、これに似た種類のスノーフレークもまた、後を追いかけるようにして春の先取りに余念がありません。
 彼女たちが秘めている生命力の逞しさにはほとほと感心させられます。目にするたびに動的な生命の輝きに胸を打たれます。
 花はどれも、開花と同時に無垢そのものの魅力を発します。とりわけこの種は、美を旨とする精神のどこかを大いに刺激して、三千メートル級の高峰から激しい風の音が吹き降りてきても、なんとしても生き抜かねばという強い心組みを支えてくれるのです。
 おまけに、小説家なんて茶番染みた人生ではないかという、声なき声の揶揄を物の見事に打ち消すことも間々ありました。ちまちまと今を生きる者にとってはちっぽけな救いでありますが、しかし、絶大なる効果が潜んでいて、きょうとあしたを生き抜くための原動力の一端を担ってくれたりもします。
 そうした救済の意味を込めた小花に囲まれているうちに、自分の名前なんぞは必要に思えなくなり、さらには、自身の居場所へのこだわりがたちまち薄れてゆきました。
 併せて、ねじくれていた思考が水平に戻りました。ついで、足取りも軽く故郷へと向かう若者の後ろ姿が、ぽっと脳裏に浮かびました。
 小鳥のさえずりに我に返り、ふと頭上を見上げると、尾羽の振り方に愛嬌を覚えずにはいられない、しかもとても人懐こい野鳥、あのジョウビタキが、まだ閉じたままの蕾に覆われているサンショウバラの枝から枝へと飛び移っていました。今年もまた訪れてくれたのです。例年の訪問者に違いありません。勝手にそう決めつけています。
 素早いその姿を目で追っているうちに、感傷的な気分やら、難解な真理やらがあっさり飛び去って行く様子が確認されました。
 よくまとまった生涯であるとはとても言い切れませんが、しかし、これはこれでそう卑下した一生でもないようです。そんな予感が頻りの一日になってくれました。
 
「幸福なんて葉陰から覗くサクランボだよ」とジョウビタキがのたまいました。
 
「迷夢から覚めたときから真の生が始まるのです」とはスノードロップの独り言です。

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