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瞬間アクアリウム

なにか小説を書こうと思い、単語をランダムに三つ引いてそれをお題に書くことにした。

「年頃」「趣味」「淡水魚」



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両親が離婚することになり、どちらにも懐いていなかった自分は一人暮らしを始めることにした。姉は彼氏の家に転がりこみ、母は通っている精神病院に紹介されて施設に入り、父は既に別の女と同棲を始めているらしい。10年過ごした一軒家は誰にも惜しまれることなく取り壊されることになった。同時に荷物もいろいろ処分する。父と一緒に遊んだ古いゲーム機も、母に褒められた図工の作品も、何とも思えないまま全部捨ててきた。

ただし唯一、家には水槽があった。父が一通りの器具を揃えて、熱帯魚を飼っていた。グッピーとか変なちっちゃいエビとかを。姉も父も持っていかないようで、母はそれどころではなく、どうやら放っておくと「処分」されてしまうらしい。仕方がないので自分が連れていくことにした。

そんなわけで、この四畳半の殺風景な部屋で一番設備が整っているのは彼らグッピーたちの生育環境である。淡いライトも酸素もエサも綺麗な草もあり、人間はひとり粗末な机と椅子でこうして日記を書いている。

日記と言うが特に日付を書いたりはしないので、後から読み返してもいつのことだったか思い出せないかもしれない。まあ自分にだけわかればいいか。



数日かかって水槽の設備が整った。かなり大変だった。今まで母がちゃんと世話をしているものだと思って自分はただ水槽を眺めているだけだったけど、いざ自分が世話をすることになってちゃんと調べて見ると、知らないことがいくらでもある。今の環境を維持するにもいろいろ消耗品が必要だったと知って買い揃え、そもそも足りない設備があると知って慌てて買いに行き、大学の帰り道にあるペットショップに毎日のように寄っては自分でも何が何だかわからんモノを買って水槽に取り付けていく。これで本当に合ってるのか、これで君たちは快適に過ごせているかい、元気でいてくれるのかい、と聞いてみてもグッピーもエビも返事をしない。ゆらゆら泳いだり、のそのそ歩いたり、草の間で寝ていたりするだけである。彼らがどう思ってるかはわからんが、澄んだ水の中で元気そうに動き回っているのを見るとちょっと満足感がある。

人間のほうは世話をするのが楽でいい。毎日気まぐれに惣菜とかおにぎりとか安いレーズンパンなどを食って、水道水を飲み、まだ布団が届かないので床に上着を敷いて寝ていたりする。こんなんでも元気に大学に通えているので人間というのは頑丈なもんだ。



グッピーを飼っているという話をすると意外と興味を持たれることが多くて、大学では「グッピーの人」みたいに扱われることが増えてきた。
魚ってかわいいの、とか、何が面白いんだ、とか聞かれるが、なんだろう、元々趣味でやってるというよりは家族の誰も世話しないようだから引き取ったという形なので、返答に困る。そして聞くほうも決して家に見に来たいとは言わない。まあそんなもんでしょう。猫を撫でたり犬にボールを取ってこさせたりするのは面白いだろうけど、魚を眺めるのはあんまり趣味にはならない。時速0.1キロくらいの速度で動く生き物を眺めて面白いと思うのは他に趣味がなくなった老人くらいのもんだろう。



グッピーが一匹死んだ。こんなにショックなのか、と自分でもびっくりするくらい悲しい気持ちになっている。立ち直れそうにない。また水槽を見るのが怖いくらいである。でも元気に泳いでる他のやつらを見て安心もする。
近所の公園に埋めてやった。
何がいけなかったのかわからない。ペットショップの店員さんに相談したら、話の限りでは環境には問題がないから寿命だろう、と言っていた。そういえば父がグッピーを買ってきてから何か月も経っている。半年前だったか? 一年前だったか? 本当に自分のせいではないんだろうか。数を数えるとあと8匹いる。エビは3匹。残ってるやつらにはなるべく長く生きてほしい。天寿を全うさせてやりたい。



グッピーがもう一匹死んだ。本当にショックで、すごい無力感を感じながら、なるべく丁重に埋めてきた。
寿命はどうしようもない。自分が決意しても努力してもどうしようもないことがある。やれるだけのことをやっただろうか。ペットショップの店員さんにまた聞くけれど、本当にしょうがないらしい。いつ買ったのかわからないが十分生きてるほうだと。
あと7匹と3匹、これを見送って哀しみに耐えていくのかと思うとつらい気持ちになる。ただ水槽を眺めると、彼らは全然元気に泳ぎ回っている。今日死んだやつも昨日までは元気に泳いでいたはずなのに。


大学に、グッピーを見たいというやつがいて三人遊びに来た。見て五分くらいは面白がっていたがどうも反応に困るようで、その後普通にお菓子を食べながら雑談する会みたいになった。話題が途切れるとみんなぼうっと水槽を眺めて、誰かが何か思いついたらまた話に戻る。帰るときみんなグッピーに話しかけて「じゃあな」「また来るね」とか言っていた。自分は例え人前でも魚に実際に声をかけようとは思わないので、彼らのそういう仕草は人間らしくて良いなと思った。真似するのは恥ずかしくてできないが。
「また来るね」と言っていたがそれまでこいつらは元気に生きているだろうか。正直、今日話している最中も急に死んだらどうしようと気が気でなかった。
エサをやるとみんな草の陰から出てきてうまそうにパクパク食べている。何度見ても楽しい。みんながいるときにエサをやればよかったなと思った。




続けざまにまた二匹グッピーが死んで、いよいよ心が塞がってきた。少しだけショックが和らいでいるが、こんなことに慣れたくないしちゃんと悲しみたい。
5匹と3匹になってしまった。エビはまだ元気だ。最初から数えてグッピーは半分近くになった。水槽が大きく見える。



エビが死んだかと思ったら脱皮の抜け殻だった。本当に心臓が止まるかと思った。皮の剥けたエビは色が鮮やかで、若返ったみたいに見える。これにも寿命があって別れの日があるんだ、と思おうとしても想像できない。その日が来たらちゃんと受け入れられるだろうか。エビが死んだらさすがに耐えられないような気がする。



例の大学の三人がまた遊びに来た。一人がやりたいボードゲームがあるとかで、うちでやるのはどうかという話になった。「カタンの開拓者たち」とかいうゲームで、面白いけど1回の勝負に1時間くらいかかるので最後はみんなへとへとになっていた。ひとり女の子が水槽に目線を合わせて「疲れたねえ~グッピーちゃん」とかまた話しかけていた。
魚に話しかけるのはなんか楽しいらしく、ゲーム中判断に困ると「おい教えてくれ、これどっちが正解だ?!」ってカードを二枚水槽に向けて、魚が泳いでいった方向を頼りに「こっちだな?!わかった俺は信じるぞ、グッピーお前を」みたいなことをやっていた。まあ水槽に触れてはいないからストレスになったりしてないだろう、と思いつつ、こんな形でもかわいがってもらえて良かったなと思った。
そういえば、その女の子が家に入ってすぐ「前より減った?気のせい?」って小さい声で聞いてきた。自分が頷くと、少しショックを受けたような顔で、何かを言おうとしていたが、何も言えないでいるようだった。男二人は気づかないで「グッピーちゃん!また来たぞ」とか言っていた。



3匹と3匹になった。エビは元気だ。グッピーはもう、水槽を見るのもつらいが、それでも生きているうちにその綺麗に泳ぐ姿を目に焼き付けておこうと思い、水槽を眺める時間が増えた。朝起きてはみんな元気か確認して、夜寝る前にも数を確かめる。3匹だから数えるのが簡単になってしまった。



グッピーは2匹になった。それぞれの身体の模様まではっきり覚えている。別れの覚悟もできた。


例の女の子が一人で水槽を見に来た。
最初、今度は一人で来たい、と言われたときどういう意味か全然わからなかったが、聞くとその子の祖父の家が同じように淡水魚を飼っているようで、もしその気があればそっちで引き取ろうか、という話を持ち掛けられた。四畳半の家に水槽があるのは邪魔だろうし看取るのもつらいだろうし世話も大変だろうしとのことで。
確かにこの魚は父の気まぐれを引き取って世話しているものだから、自分が苦労しなきゃいけない理由はどこにもない。でもこうして数か月過ごしていて愛着も湧いてきて、自分の手を離れるのも寂しくなっている。つらくても最後を一緒に過ごしていたい。というようなことを言った気がする。
その子は家に来て水槽を見て、スマホで写真と見比べたりして、確かにこのエビが住める環境おじいちゃんちにあるよ、と言った。自分さえよければエビだけでも引き取ろうかと言われ、ちょっと迷ったりした。
確かに世話が大変ではある。グッピーが死ぬのは覚悟ができているがエビはもっとショックを受けるかもしれない。それにこいつらが元気に過ごせるんなら、それが自分の元でなきゃいけない理由もないかもしれない。



二人でその子の祖父の家に行った。大きめの水槽に魚が一匹と、小さな水槽がふたつあった。そのうち片方には、うちにいるのと似たようなエビがいた。うちより水が澄んでいて、草がいっぱいあって大小いろんな岩の上をのしのしエビが歩きまわっている。他にも見たことない種類の魚が何匹か一緒にいる。綺麗だった。うちのエビもああいうとこで暮らすほうが幸せなんだろうか? わからないな。
祖父ご本人とも顔を合わせてちょっと喋ったけど、真面目そうな人だった。教養がありそうというか。家に水槽があるのは邪魔じゃないかな、と聞かれて、まあ慣れましたし、とか答えた。この家の水槽のほうがよっぽど大きいですよ、と言ったら、驚いたように笑って、確かにねと頷いていた。
その子も祖父に会うのは久しぶりだったようで、嬉しそうに話をしていた。水槽を見ては、これ前はいなかったよねとか、いろいろ質問していた。自分はどうもそこまで興味が持てなくて、ちょっと気まずい思いをしながら帰った。
家に帰って水槽を見て、2匹のグッピーと3匹のエビを見ると、やっぱり手放せないなと思った。エビも最期まで看取ろう。悲しいのも含めて。



例の女の子と定期的に会って、水槽の話とか、結局その子の祖父に譲るのか自分で見ていくのか、どうするのかという話をしている。話すにつれてやはり自分で面倒を見ようと思うようになった。最初は半ば義務感というか使命感のように世話をしていたのに、今はこの2匹と3匹が、自分に残された最後の家族のように感じられる。別れはつらいし何度経験してもぞっとするが、悲しむことも含めて彼らと過ごすことなんだと思う。



グッピーがあと1匹になった。2匹になってからずいぶん長く経った気がする。よく生きてくれたほうだと思う。覚悟はしていたつもりだけど、今朝水槽を見た瞬間は時間が止まるようで、心臓を掴まれたような気持ちになった。埋めながら、不思議と悲しいとか怖いというよりは、今まで生きてくれてよかった、というような気持ちになった。エビはまだ元気でいるし定期的に脱皮している。



例の女の子とは定期的に会っている。魚の話をすることもあるし、そうでない話をする時間も増えてきた。一度冗談のように「これって付き合ってると思う?」と聞かれて「どっちでもいいんじゃないかな」と答えてしまった。どっちでもいいことはないだろう。彼女がその後どんな顔をしていたかは思い出せない。
昨日は家に遊びに来て、じっと水槽を眺めていた。1匹になってしまったグッピーを眺めて、遠い目をしながら、口では取り留めもなく大学の話とかをしていた。



最後のグッピーが死んだ。一匹で水槽を泳ぎ回るのは寂しかったのかもしれない。エビがいたとはいえ。それとももう一匹がいる間はそれで生きていられたのかもしれない。みんなと同じところに埋葬した。
エビだけになってしまった水槽を眺めて、覚悟ができていたとはいえ、魚とはいえ、哀しい気持ちになってぼうっと過ごしていた。



グッピーがいなくなったことを例の女の子に話すと、一瞬目を泳がせて「そうなんだ」と言った。自分のことではないはずなのに、寂しいような、覚悟を思い出したような顔をしていた。またうちに来ることになった。



グッピーを埋めた場所を聞かれて、その公園を通りがかるときに二人で手を合わせた。

家について、すっかり寂しくなった水槽を二人で眺めた。エビはまだ元気でいてくれている。その子がエビの数を数えて、突然驚いたような顔をした。言われるまでもなく、自分もよく見てみると、いち、にい、さん、よん、ご。エビは3匹と、小さいのが2匹いた。子供が生まれていたらしい。彼女と顔を見合わせて、嬉しくて目が輝いていたのはきっと自分もだと思う。二人で子供みたいに喜んだ。

その後、どちらともなく話し始めて、ちゃんと付き合うことになった。もっと喜んでもいいはずだけど、どこか寂しいような、微笑みの中でも目は真っすぐだった。
自分もきっとそうだと思う。いつか別れが来るのは覚悟の上で、その悲しみをも大事にして過ごしていきたいなと思う。

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