小説「本当の嘘」全5回の2

件名:よろしくお願いします。
from himi2
本文:はじめまして。早速ですが、相談させていただきます。どうすれば男の人の気持ちがわかるようになりますか?

 僕は思った。
「<はじめまして>か。確かに<はじめまして>だよな」
 普段なら知らないメールに返事など書かない。絶対書かない。でも今は雨宿り中である。

件名:こちらこそ。
from masa
本文:よろしくお願いします。相手のちょっとした態度や仕草をじっくりと観察してみてはいかがでしょう。

 回答文は書いたが送信するのは躊躇した。間違って送られてきたメールに返事を書くのは犯罪の臭いがしないでもない。気持ちが決まらないでいると、体格のいい犬が公園に入って来るのが見えた。白く長い毛並みが自慢げで歩き方にふてぶてしさがある犬だった。しかも犬の分際でおしゃれなレインコートを着ていた。小さな子供なら背中に乗せることができそうなほど大きな体つきである。リードに引かれるように飼い主も入ってきた。犬とおそろいのレインコートを着ている。飼い主は高級そうな犬を連れているだけあって上流階級に属していそうな雰囲気を漂わせていた。

 犬は公園内をあてがあるふうでもなくゆっくりと歩き回っている。飼い主は犬に行き先を任せているようである。少しずつ近づいてきた。僕はスマホに視線を落としてはいたが、視野にはしっかりと犬の動きを捉えていた。犬は3メートルほどの距離に来ると立ち止まり、一呼吸おいて大きく吠えた。「ワン!」

僕は送信ボタンを押した。

 不思議である。躊躇していた僕だったけれど送信したあとは罪悪感もなくなっていた。むしろワクワクした気分になっていた。

 雨は相変わらず降っていた。その雨にせかされるようにスマホがバイブした。急いでスマホを取り出すと今度は電話だった。画面には「会社」と文字が表示されていた。

 結局、仕事は中止にはならなかった。社長がいつも利用している天気予報サイトでは、「この強い雨は一時的なものでしばらくすると上がる」そうである。経営者はごうつくばりだ。現場で働いているスタッフに配慮する気持ちなど微塵もない。空を見上げた。僕は予報官にはなれそうもなかった。

 雨宿りをしている場所から少し離れたところにトイレがある。僕は自転車に鍵をかけて向かった。この仕事をするには配布地域近辺のトイレの場所を知っていることは重要なコツである。この仕事をはじめてから人間にとってのトイレの重要性を知った。それまでは普段歩いているときにトイレの場所を考えることなどなかった。しかし、今は無意識のうちにトイレの場所を確認するようになっている。

 トイレに対する感性が研ぎ澄まされてから気がついたことがある。それは、ちょっとした規模の建設現場には必ずトイレが設置されていることだ。配布員の仕事をしていなかったなら、そんなことも知らずに一生を終えるところだった。人生の視野を広げるという意味において配布員という仕事は大いに貢献している。僕は、間違いなく人間としての幅が広がった。

 トイレから戻ると雨宿りの住民が一人増えていた。失礼な言い方を許してもらえるなら薄汚い服装をした六十才くらいのオッサンである。もしかしたらもっと若いかもしれないが薄汚い身なりは年令を老けて見させる。理由はわからないが、この種の人たちはつばのついた帽子を被り前ボタンのついたベストを身につけていることが多い。オッサンも例外ではなかった。

 オッサンはラジオを大きな音で鳴らしていた。聞き覚えのあるアナウンサーが話していた。学生時代によく聴いていた番組である。まだ続いていることに感動した。学生から社会人になり、そして退職し今は非正社員といううらぶれた身分になった自分がいる。それほどの月日が流れても番組は変わらず続いていたのである。長寿番組は人間を感傷的にさせる。

 メールがきた。先ほどの相談者である。
件名:himi2です。
本文:早速のご回答ありがとうございます。自分に観察力がない場合はどうすればよいでしょうか?

件名:masaです。
本文:観察力があるかどうかは別にして確かに判断がつきにくいことはありますよね。そういうときはリトマス紙試験をするとよいです。

 我ながらうまいことを書いたと思った。

 返信はすぐにきた。
件名:う~ん…。
本文:リトマス紙試験ってなんですか?

件名:答え。
本文:小学校で習ったリトマス紙のように反応がすぐにでるような行動をおこすことです。例えば冗談半分に手を握る、とか (^o^)。

件名:でも…。
本文:私、行動派人間ではないんです。内気なもので…。それに行動派だったらこんな悩みも起きないと思うんですけど…。ほかに方法ありませんか?

 僕は困った。恋愛経験がない僕に相談者を納得させる模範解答が浮かぶはずがなかった。オッサンのほうを見るとラジオが面白いのだろうか、口元が緩んでいた。
 僕は学生時代に聴いていたラジオ番組の人生相談を楽しみにしていたことを思い出した。人生相談の回答者だったらどんなふうに答えるか…。

件名:質問です。
本文:himi2さんは相手の人のどんなところを好きになったのですか?
 カウンセラーの基本は相手から話を聞き出すことである。

件名:そうですねぇ。
本文:一言で言ってしまうとありきたりな答えになってしまうんですけど「優しいところ」です。その優しさも「前へ前へ」って感じじゃないところがとっても好きです。

 僕もそういう人は好きである。
件名:なるほど。
本文:himi2さん自身もとても優しい人なのでしょうね。私はあなたに好意を持たれている男性が羨ましいです。

オッサンのラジオから歌が流れてきた。僕が学生時代に一番好きな歌だった。自然と足でリズムをとり唇が動いた。

♪人ごみ~に流されて~
♪変わって~ゆく私を~
♪あなたは~ときどき~
♪遠くで~しかって~

…つづく。

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