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幸せのカケラ➃

≪春菜の章≫

アタシは雨の中、高速をとばしていた。
緩やかなカーブと下り坂の続く道を、彼のことを考えながら走っていた。
少し前に彼が言った言葉、彼がそれを言った時の表情を思い出して。
私に言ったあの言葉の中に、少しでも希望を探してみるけど、どうやっても見当たらない。
なんで?なんで?なんで?
グッとアクセルを踏む。
対向車線のライトの眩しさに一瞬目がくらんだ。
後輪が滑ったな、と思った瞬間、
アタシの車は高速道路の壁に激突していた。
アタシの車の前方部分がへしゃげている。あと
1 年、ローンが残っていたのに。保険はどうなるんだろう?
あ、このふわふわ状態、もしやアタシ、死んじゃった?
そうか、これが彼の言っていた話か。
ふんふん、それでどうなるんだっけ?
導きの天使とかが出てくるんだっけ?
『ねぇアナタ、死んじゃったんだよ』
と、いきなり声がした。振り向くと、長い髪をツインテールにして 、
パッツン 前髪 の 小さな女の子が立っていた。
『・・・天使?』
『うん、そう。天使。アナタの守護霊。』
『あぁ・・・そっかー。アタシ死んじゃったかぁ・・』
『助けてあげられなくてゴメンね』
『ううん、いいよ。でも・・もうあの人には会えないんだね・・』
そう思うと涙がこぼれてきた。大好きだった。大好きだった人。
涙が瞳からあふれて頬を伝って落ちていく。
そんなアタシの右手を天使がぎゅっと両手で握る。優しい手。
暖かい手。遠い昔にこんな風に手をつないだような気がする。
アタシが彼と出会ったのは、彼が勤める宗教施設 の
パンフレットデザインを頼まれたからだった。
彼と何度か打ち合わせをするうちに彼のことを好きになった。
アタシがパンフレットの誤植に気がつかずに印刷に回してしまい、
印刷屋から確認が来て上司にこっぴ どく叱られた後で、
彼の会社に納期が遅れることを謝りに行った時に、
近くの公園のベンチに座って、ため息をついていると
彼が通りかかったのだ。
私にかけよって
『どうしたの!?どこか痛いの?』
と言った。アタシはぽろぽろと涙をこぼしながら、自分の失敗を話した。
彼はベンチの横に立ったまま、眉をハノ字にして、少し困った顔をした。
『そうですか。それは大変でしたね。』
と、言う、
その言い方が すごく おかしくて 、 すこし笑った。
『あ、もうすぐお昼ですよ。』
と言った言葉に吹きだした。
『別にお昼を待っていたわけではありません!』
そう言うと
『あれっ、そうですか』
と言って彼が笑った。
彼の笑顔を見たら心が暖かくなった。
どうしようもないくらいに好きだった。
彼がアタシだけのものだったらいいのに。
何度も何度もそう思った。アタシは彼の話を聞くのが好きだった。
彼の話の内容よりも、彼が話しているのを見ているのが好きだった。
彼の話し方や、照れた時にちょっと裏返る声とか、
少し困ったようにハの字になる眉とか。大好きで、大好きで、
気が狂うほど好きだった。逢いたくて逢いたくて毎日逢いたくて、
逢えなくて哀しくて、用がないのに彼の会社の近くに行ってみ たりした。
時間をつぶすために立ち寄った図書館で、彼が薦めてくれたいくつかの本を読んだ。彼の気持ちに近づきたくて、彼の言っていることを
理解しようとして。彼の優しさがどこからくるのかが知りたくて。
彼の瞳の先に映るものが何かを知りたくて。
『誰でも幸せを探し求めて来たんだよ。』
と、彼が会社のカフェテラスでコーヒーを飲みながら言った。
『ソクラテスも孔子もムハンマドもみんな幸福を追求していたんだ。』
幸せ。その言葉を人は通常、口にすることはあまりない。
幸せになりたいと思っても、それが具体的になんだかわかっていない。
幸せってなんなのか。彼は信仰によって、世界中の人々を救おうとしていた。彼はいつも世界を見ていた。でもアタシは彼に出会ってわかった。
アタシの幸せはこうして彼の前にいること。
彼がいるだけで他に何もいらない。
世界中の人の 幸せも、世界平和もアタシにはどうでもいい。
もしも私にできることがあるのなら、それは全て彼のために使いたい。
彼がアタシに“ありがとう”と言ってくれるなら、
アタシはこの命ですら投げ出し てもいい。
『例えば・・・キミは食べ物で何が好き?』
『えーと。んん、パスタかな。明太子パスタ。』
『今、とても空腹でそれを食べたら美味しいと感じるよね?
昼も夜も食べて、明日の朝も三食それだとしたらどう?』
『ん・・・ちょっとイヤかな』
『それが順応仮説と言って、幸福な環境がずっと続くと
それに慣れてしまって幸福感が減っていくんだ。わかる?』
『わかる。』
アタシはうなづいた。でもね。アタシ、きっ
とあなたとずっと一緒にいても、ずっと幸せ
でいられる気がする。このままずっと一緒にいても
幸福感が減るなんてないと思 う。今日こうして逢っても、じゃあね、
と言った 1 秒後にあなたに逢いたくなる。
明日になったらもっと逢いたくなる。
『ねぇ、国崎さんの幸せはなんなの?』
『僕の?』
『そう、国崎さんの幸せ』
『真理の伝道者として生きること。』
そう言って微笑む彼の笑顔がアタシの心をせつなくさせた。
彼が微笑む度に、アタシの心はせつなさでいっぱいになった。
アタシの方を見て欲しい。アタシだけを見て欲しい。
そう願えば願うほど、それが無理なことだってわかるから。
彼は結婚指輪をしていなかった。もしかしたら独身なのかなと思ったけど、奥さんも子供もちゃんといた。
でも彼はアタシの前で奥さんの話も子供の話もしなかった。
それが彼の優しさなのかズルさなのかわからない。
打ち合わせの後、みんなで軽くご飯を食べに行った時に、
彼の会社の人が奥さんの話題を振った時も、
アタシは聞いてないふりをした。
彼がどんな顔でその話をしているのか見るのが怖かった。
彼の全てを知りたくて、彼の全てを知りたくなかった。
今、目の前にいる彼が、ずうっとアタシのそばにいてくれればいいのにと思った。誰かの旦那さんでもなく、誰かのお父さんじゃない、
ただの一人の男の人として。
彼は、彼の信仰している宗教の冊子をよくアタシにくれた。
時々は 神様の 御法話が入っている DVD を貸してくれた。
その DVD を返す時に、いつもその内容について解説をしてくれた。
彼の話し方は、よくある宗教の勧誘のように、自分が正しいんだから”という
おしつけがましいところがなかった。
だから、アタシは彼の言うことを信じた。あの世はきっとあって、死んでも人は霊となって天上界で会うことができる。
今、こうしているのは魂の修行なんだと。
でも、だったらどうしてアタシは彼と出会ったんだろう。
アタシと彼が出会ったことの意味はなんなんだろう。
この世に偶然などありはしないというのなら、アタシと彼が出会ったことにも意味があるはずなのに。
それがなんなのかわからない。アタシが彼にしてあげられることは
なんなんだろう。アタシは彼がいるだけでこんなに幸せなのに。
アタシが彼にしてもらった何分の一でもいいから返したい。
でもそれ をどうしたらいいのかがわからない。
忘年会で、彼の異動を知った。彼に会えると思って
わざわざ着替えて会場に行ってみると、彼はいなくて、
彼の後任の人がいた。
『国崎は、14日付で石川の方に異動になりまして。
私が後任の鈴木と申します。』
と、名刺を差し出され、アタシは機会的に名刺を交換し、
平静を装いながら内心かなり動揺していた。
異動?石川県?なにそれ?なにそれ?もう会えないの?電話しなくちゃ。
でもなんて?アタシが彼に電話してなんて言うの?何を言うの?
恋人でもないのに?ただの取引先の関係なのに?
アタシは携帯を取り出して、メールを作ろうとした。
ダメだ、何を書いていいかわからない。
『く、国崎 さんは、いつまでこちらに?』
隣に座っている鈴木さんにたずねる。
『明日からあっちに行かなきゃいけないんで・・。
今日は引き継ぎじゃないかな。うちって異動が急なんですよ。
異動ってなったら3日後には異動先に行かなきゃいけなくて。』
それを聞いて、アタシはいてもたってもいられなくなって、
バックを持って席を立った。
駅へ向かうタクシーの中で電話をかけてみる。
留守電にならないまま呼び出し音がなっている。
『異動になったって聞きました。今日、会えませんか?』
とメールで送る。
彼の会社 の最寄り駅まで約1時間。会えるか会えないかわからないけど、
アタシは行かずにいられなかった。
このまま会えなくなっちゃうなんて、そんなのイヤ。
絶対にイヤ。改札を抜けようとしてメールの着信音が鳴る。
『今日はこれから本部 に挨拶に行きます。』
本部・・・最寄りは東京駅のはず。アタシは改札を抜けて
山手線のホームにかけあがった。
ホームの端から端を歩く。彼の姿を探す。
いるわけないと思いながら、もしかしたら、と思って探す。
彼の黒いジャケットを探す。山手線が止まる度に、
京浜東北線が止まる度に、彼の姿を探す。
白い息がどんどん濃くなっていく。アタシは携帯を握りしめたまま、
階段に近いベンチに座った。 逢いたい、逢いたい、逢いたい 。
でもきっと今、アタシがそんなことを言っても彼を困らせるだけ。
わかっているけど。それはわかっているけど。お願い、神様。
どうかアタシのお願いを聞いてください。
このままアタシをあの人から引き離さないで。
アタシは彼のためなら何でもするから。この命さえいらない。
彼がいれば何にもいらない。 アタシは祈った。
これ以上ないくらいに神様の名前を呼んだ。
何時間くらいそうやってベンチに座っていただろう。
ホームに降りる人の数もまばらになってきた。きっともう 帰ってしまった の だろう。東京駅だってこんなに広いんだもの。
山手線を使うとも限ら ない。彼のうちの最寄りの駅がどこかさえ知らない。彼のこと、何にも知らない。でも好きなんだもん。
どうしようもないくらいに好きなんだもん。涙が頬を伝って落ちる。
もう一度だけメールをしようと携帯を開いた時に電話が鳴った。
彼からだった。
『も、もしもしっ』
『あ、国 崎です。すみません、電話出られなくて。』
『今、どこですか?』
『うちに戻ってきて荷造りするところです。』
『あぁ・・そうですか。』
アタシは全身の力は抜けるのを感じた。そうだよね。そんなうまくはいかないよね。
『いろいろお世話になりました。』
と電話の向こうで彼が言う。
『いえ・・こちらこそお世話になりました。あの・・こんどはどちらに?』
『石川県の 支部 です。』
『そうですか・・』
『お時間ある時に是非おいでください』
『えっ、行ってもいいんですか?』
『まぁ・・石川県は僕のものではないし 。』
と言って笑う。
『行きます!行きます!』
『それじゃ、また。他にも連絡するところがあるので。』
『はい、ありがとうございます。』
アタシは携帯を握りしめたまま、また少し泣いた。
ほんの少しでもつながった彼との糸が嬉しくて胸がいっぱいになった。
できることならついて行きたい。アタシも石川県に行ってしまいたい。
愛されなくてもいいからそばにいられたらいいのに。
『ホントに愛されなくてもいいって思ってた?』
天使がアタシに聞く。
『え?』
『愛されなくてもいいからって思ったでしょ。
でもホントに愛されなくもいいって思ってた?』
『それは・・まぁ、アタシのこと好きになってくれたら
いいなぁとは思ったよ。でもそれは叶わないことだし、
望んじゃいけないこと だし・・ 』
『奪う愛だから』
『そう、うん、奪う愛はダメなんだよね』
『でも、国崎さんもあなたのこと好きだったんだよ』
『まさか』
『ううん、ホント。だから彼は今とても苦しんでいる。』
『・・・でも、 もうアタシには 声をかける術さえないのね。 』
『大丈夫。彼はきっと乗り越えて行くから。さ、行こう。』
アタシはもう一度しっかりと天使の手を握ると、光の中へと入っていった。


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