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涙の急行雲仙号

 昔、事情があって一時期大阪に一家で住んでいたことがある。縁あって今再び同地の住人になっているが、当時大阪から実家の五島列島に行くのは、ひと仕事、またふた仕事であった。今なら飛行機や新幹線で九州まですぐだし、いずれの方法でも快適な旅路である。私が小学校の頃は、彼の地までの旅程において最も金がかかるのが飛行機、次がJRの寝台特急「あかつき」か「さくら」、そして最後が今回のテーマになっている急行雲仙号だ。陸路で向かう時には、この電車は関西から長崎に行く通常の手段としては一番安い。わざわざ陸路と断ったのは、船というルートが無くはないからである。実際一度だけ船で別府まで乗船した後、九州を鉄道で横断して西岸まで行くルートで実家に向かったことがあるが、フェリーで行く瀬戸内海2等船室クルーズの話は後日ということにして、ここではやめとこう。
 飛行機に乗る人など余程の金持ちか、よんどころない事情でとにかく急いでいる人以外はほとんどいなかった時代だ。そんな中、それでも私は中学生の時に一度だけ実家に行くために飛行機に乗ったことがある。伊丹から長崎空港までは1時間少々しかかからない空の旅ではあるが、機内での注意事項は事前に父にレクチャーされたものだし、離陸の2時間前には家族全員が一張羅を着て空港入りした。当時の家庭にはよくあった百科事典には、飛行機に乗った時の心得なども書かれてあり、否が応でもその特別感に私たちの緊張は高まったし「くつろぐ」ということなどできるはずもなかった。いよいよ当日、舞い上がった気持ちで全日空のプロペラ機に乗り込むと、眩しい眩しいミニスカートのスチュワーデスのお姉さんが微笑み、私たちは高級な空間に投げ込まれた田舎者の家族となった。生きた心地がしないままシートベルトでくくりつけられた私たちは、配膳用のお盆に乗った黄金糖をくだんのお姉さんからサービスされ、アメを舐めながらちょっと揺れただけで大騒ぎし、恐る恐る眼下の景色を眺めている内に大村湾沿いにある長崎空港に降り立った。今思うとどうして私たち家族のような貧乏人が、飛行機様などに乗せていただけたのか不思議でしかない。
 空港から長崎駅の先にある大波止(乗船場)までは、当時は路線バスで向かうしかなかった記憶がある。乗客も多くないからリムジンバスも運行してなかったのかもしれない。大波止から五島列島行きのフェリーは、朝9時と昼12時の2本。昼の船に乗れなければ長崎で一泊する必要があって、本当にのんびりした時代だったと思う。
 飛行機の次に贅沢な帰省行は寝台車である。寝台車は狭いながらも自分1人のベッドだからカーテンを閉めれば、3㎥(推定だw)の完全なプライベート空間となる。私は寝てしまうのがもったいなくて、夜遅くまで足元の窓からわずかに見える外の景色を飽きることなく眺めていたものだった。しかしこれはB寝台と呼ばれた幅の狭いベッドに1人で乗らせてもらった時の話だ。これがA寝台1台のベッドに兄と2人で乗った場合にはそうはいかない。幅の広いA寝台であっても兄と2人で寝るとなると、狭いし夜中の間ずっと外を見ていることができない。ウチの兄も世の兄というものの慣い通り、弟や妹の楽しみには横からチャチャを入れてイケズや邪魔をするものだからだ。
 さておしまいは本稿のテーマである雲仙号の話である。同じ国鉄の電車には違いないが、寝台車ではない急行には当然ベッドなどない。ということは、座席に座れなかった人ははじめのうちは立っているものの、しばらくすると年寄りから順に通路に何か敷いて地べたに座ることを余儀なくされるのである。雲仙号に乗ると大阪駅から長崎駅までは当時14時間半かかった。今でも乗車時間をはっきり覚えているのは、途中からまだかまだかと時計ばかり気にするような辛い思い出だったからだ。電車の床は硬い。そして冷たい。年寄りでなくとも辛い苦行である。それでも雲仙号は乗客でいつも溢れていた。そこには安く行きたい人、急に九州に行かなければならなくなった人、何も考えておらず「ま、座れるだろー」と完全にナメている人の3パターンの人種が存在した。ある年兄と私で2人の帰省時、奇跡的に座席を一席だけ確保できたことがあったが、兄弟で14時間半の間、1時間毎に交代で座ろうなどと約束しながらも、小学生の私は深夜から朝まで座席で眠り込んでしまい、早朝目覚めた時には新聞紙の上で三角座りをした兄が真っ赤な目でうつらうつらしていた。眠りこける幼い弟を起こして「代われ」と言えなかった兄の優しさが沁み、心から申し訳なかった思い出がある。

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