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相対評価

 結局この世は相対評価で成り立っている。例えばある芸術作品を素晴らしいと思う気持ちは、痛い、嬉しい、面倒臭いなんかと同じで数値化ができない。だからゴッホも、ロイヤルバレエ団も、ビートルズも、その価値はそれを求める人の数で決まる。素晴らしいと思う人が多ければそれは価値の高いものとなり、そう思う人が少なければ駄作となる。きっと絶対的な意味では光を放つものだったとしても、歴史の中に埋もれてしまった人物や作品は多いだろうなぁとも思う。発掘されなかったか、広報がまずかったか、感性が時代と波長を合わせられなかったか。

 俗にいうブランド品なども同じだ。例えばシャネルのバッグはあんな価格でどうして売られているのか? 私にはどう考えてもコストパフォーマンスが高いとは思えないが、世界中の多くの人が良いと言っているおかげでビジネスは成り立っている。一つには値段の高さそのものがあのバッグの価値を作っているのかもしれない。良いから高いのではなく、高いから良いのだ。
 中国のユニクロで、とあるTシャツの奪い合いがニュースで流れた。浅ましいことこの上ない光景で、あの時は嘲笑したが、あの時ほどではないものの、なんと次は我が国のユニクロでも似たようなことが起きているではないか。名古屋だったか、あるデザイナーとのコラボシリーズを求めて、ギューギューに混雑した店舗内では怒声が飛び交い、商品が床に散乱し、マネキンに着せてあった見本まで客の手によって剥ぎ取られていた。未曾有の大地震や洪水に遭ってもなお、炊き出しに並ぶ列を乱さない人たちと同じ民族がすることとは思いたくないが、TVに映される映像は、まなじりを釣り上げた男女による、民度の破壊そのものであった。聞けば発売日直後から商品はフリマサイトで転売されていたらしい。めまいがする思いだ。そんな卑しい方法で入手したものを着て、何も思わないのだろうか? きっと出どころが汚いそんな服でも身につけたいと思える人は、相対評価の中で優越感を得たいという思いだけで生きているから、その商品が偽物でも、盗んだものでも、詐欺で手に入れたものでも意に介さないのだろう。しかし他人の視線を常に気にして、他人の評価に翻弄されながら生きるのはつまらなくないのかなぁ?とあくまで上から邪推している。

 SNSやブログで炎上だわ、叩かれるだわ、晒されるだわと騒ぐことも結局は相対評価の産物である。ある事実に共感する人が多いのか、逆だと思う人が多いのか。しかし思うのだが、起きたことの価値が多数決で決まってしまうということは、ヒトラー、スターリン、毛沢東の三大独裁者が生きた時代の歴史が証明する通り、深く考えない烏合の衆を巻き込んであらゆる施策は全て正しいということになる。同調圧力も働き、数は暴力となり肯定せざるを得なくなる。

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