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仏談 -来迎・お迎え-

 浄土宗や浄土真宗などの阿弥陀如来を奉る宗派は、日蓮宗や真言宗とは違い、亡くなる時に孫悟空のように、雲に乗った仏様がいらっしゃる。仏様側から直々に方からお迎えが来る訳なので、巷で言われるところの死後の世界というものが無い。よって中陰と呼ばれる半人半仏のような半端な49日間の期間も無い。
 他宗派であれば生前の所業に対する裁判を、毎週1回、合計7週7回耐えなければならない。その間浄玻璃の鏡に映し出される再現フィルムによって悪事は全て暴かれ、当然自供と食い違えば嘘がバレて舌をペンチみたいな道具で抜かれてしまうのだ。やっと7回目の裁判(ちなみに有名な閻魔大王は5週目の裁判官だ)を経て解放されたかと思う間も無く、次に生きる世界に転生することになる訳だ。
 そう考えるとそりゃみんな阿弥陀仏を拝むわなぁ。なんせ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで仏様が連れに来てくれて、極楽まで一直線なんだから。平安時代、全国民が地獄に落ちる我が身を案じ(殺生をすれば地獄へ落ちるのだから、害虫や害獣を殺してきた自分は・・・)恐怖におののいた時代、「阿弥陀信仰」が一世を風靡したのも無理はないし、世の仏像の中でも阿弥陀如来が多いのはそのせいだ。
 平安時代に始まったこの阿弥陀信仰だが、調べていくとなかなか面白い。亡くなる人の信心の度合いに応じてなんと9段階にお迎えにおけるゴージャス度が変わるのである。具体的にはお迎えに来てくれるメンバーや乗り物まで違う。一番良い(上品上生)レベルは仏様(阿弥陀如来)を中心に、菩薩や飛天がそれはそれは賑やかに、それぞれ楽器を奏でながら雲に乗っての大楽団でのお迎えだし、一番下(下品下生)では仏どころか誰ものっていない乗り物だけが配車されるのだ。しかしそれでも極楽に送迎してくれるのだが。
 面白いのはお迎えの管弦楽団の方々(雲中供養菩薩)が皆さんにこやかで、それはそれは楽しそうに楽器を演奏しておられることだ。宇治は平等院の像を見ていると、俺もこれがいいなぁ!と思えてくる。これから極楽へと向かうのだから、亡くなった人の気分は否が応でも高揚しているところに加えて、ブンチャカブンチャカと賑やかに「阿弥陀如来とお迎えオールスターズ」がやって来る。例えようもないが、某テーマパークのパレードが自分を連れて行ってくれるためだけに来てくれる感じなのかなぁ?きっと違うな(笑)

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