膜がかかった、サーカスの思い出
初めて「サーカス」なるものを見たのは、確か中学生の頃。
隣町にサーカス団がやってきていて、夏休みか何かで遊びに来ていた親戚たちと観に行った。
申し訳ないが、サーカスの記憶はほとんど残っていない。
初めてのサーカス、楽しくない訳がない。
ただその日、
よりによって、ひとつ気がかりな出来事があった。
サーカスの記憶がほとんど無いのは、その事の方が記憶に残ってしまったから。
我が家はちょこっと人里離れた山の上にあるにもかかわらず
毎年と言っていいくらい新たな野良猫が現れる。それが、時には家の猫になる事もあるのだが。
当時も気が付くと野良猫は見かけていた。
サーカスに行く日の朝。
フラフラの足取りの黒猫が庭にいた。
当時我が家にも黒猫がいたので、かなりテンパっていた私は家の子と間違えて、顔も毛並みも、なんなら一番の特徴の我が家の黒猫は片手が奇形で手袋みたいな形をしているから、それを見れば一発でわかるのに
「ちょっと白髪があるから、、、違う子?」
「怪我か何かで具合が悪くて目つきが悪いの?」
と些細な違いで見分けようと必死になっていた。
冷静に見れば、まるっきり違う子なんだけど。
とにかく、一旦はうちの子でないと分かってそれはそれで安心したのだが、
もちろん、その野良猫の事が気がかりだった。
ノラ猫はやはり警戒して、一定距離から近づいてこないので捕まえようもなく、かといってすぐにどこかに逃げる訳でなく、じっとうずくまっていた。
何とかしてあげたいけど、大人たちは出かける準備でバタバタしてるし
私はまだまだ子供で、何をどうしていいかの判断も付かなかった。
そんな中、サーカスに出かける時間になってしまった。
あんなに楽しみにしていたのに、気がかりが大きすぎて多分純粋に楽しめなかったのだと思う。
あの猫が、もしうちの子だったらきっと私はサーカスに行かなかっただろう。
サーカスになんて行かずに、頑張ってどうにか捕まえて病院へ連れて行けばよかったのだろうか。
もっと大人に訴えれば何とかなったのだろうか。
何を考え、どんな感情でいたのか、、、細かい事は覚えていない。
帰ってきたら、その猫は家の庭からいなくなっていた。
辺りを探してみたけれど、見当たらなかった。
あんなに弱っていたのだから、まだどこか近くにいるんじゃないだろうか。
だけどもし死んでいたらどうしよう。
結局、私は、助ける事ができなかったのか?
それとも、どこかで休んで元気になったのだろうか?
そんなの都合のいい勝手な想像だ。
とにかく
人生で初めてのサーカスの記憶はほぼその黒猫の思い出に包まれている。
だから
私にとって「サーカス」と言って連想されるのは、なんだか心が痛くなる膜のかかった思い出となっていた。
あれから、何年もたって、
すっかり大人になった私が再び「サーカス」に行く機会がやってきた。
それは5年前の2018年。
生まれて初めて観た、シルクドソレイユの「キュリオス」
「サーカス」という枠で括り切れない、世界最高峰のエンターテイメントだ。
あの日以来、何十年ぶりに観たサーカス。
目の前で生身の人間が、リアルタイムでなぜこんなにも魔法のような事ができるのか衝撃だった。何もかも夢の中にいるような体験で一気に魅了されてしまった。
「キュリオス」を観れただけでも奇跡なのに、なんと今年は「アレグリア」まで観る事ができた。
今回のアレグリアの感想もさることながら、5年前に見たキュリオスも含め、書きたいことはたくさんある。
だけど、今回はサーカスとの思い出の話で終わろう。
サーカスをやっと純粋に楽しめる事が出来た。
だけど、あの時、ほんのひと時いた、黒猫の事もずっと忘れない。
さいごまで読んでいただき感謝の気持ちでいっぱいです(o^―^o)!! 貴重なあなたの時間の一部が、よいものとなりますように✨