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コントロールを手放すということ@風越

視察研修、行ってみた。

東京で開催された風越学園の書籍出版イベントに行ってから、面白い実践をしている学校なんだなと思って、この度視察研修に参加させていただいた。
何度も何度も思い出して、反芻して、自分の中に馴染むまでに時間がかかってしまったなあというかんじがする。

風越

始発の新幹線に乗って軽井沢駅で降りた。
生憎の曇り空で、少し霧雨が降っていた。遠くには霧がかかっていて、少しだけ風があった。軽井沢駅からタクシーでぐんぐん山間を進む。タクシーのおじさんはとても親切で駅周辺のことや風越学園のことを教えてくれた。
そして、着いたもののどこから入ればいいかわからない!という気持ちになるほど、いい意味で学校らしくない素敵な建物だった。

けんかは止めない。

想像していた以上に、スタッフさんは子どもたちがやることを否定しない。けんかをしようと、大きい声で騒ごうと、廊下を走ろうと、とにかく否定しないのだ。(もしかすると、私の知らないところで注意されていた子はいるのかもしれないけれど)
私は当然驚いたし、心がざらざらした。
これ、私が今いる学校だったら、、、と日常に落とし込んで考えてしまう。
けれど、ここは風越学園。チェックアウトの時間にゴリさんが言っていた言葉が心に残っている。

ここは、民主主義の実験場だと思うんです。

ああ、そうだよな、と思った。
私は、この民主主義のもつ意味とは、子どもへのコントロールを手放すことかもしれないと思った。
民主主義はとても面倒くさい。みんなの合意を図り、図り、図っていく。もちろん形にならないこともあるし、失敗することもある。でも失敗を恐れずに子どもも大人もチャレンジしていかなければならない。そんな環境だと思った。
ゴリさんが読んでくれた絵本「そのつもり」(荒井良二さん作)と同じだなあと。
スタッフさんたちが彼らの行動に対して特段注意しないのは、彼らを信頼しているからだ。子どもたちの中で、子どもたち自身で大人を介入せずに健全な関係性をつくっている。その関係性の中でけんかの度合いも覚えるし、必要なことは覚える。
そして、失敗してしまったらそこから考える。そこまで子どもたちに委ねているんだろうなということが、スタッフさんの言葉や行動から伺えた。「子どもたちが作り手」と言うのは簡単だけれど、それを行動に移すのはすごく大変なことだろう。子どもの考えに口を出したくても出さない、出せない。自分の一言が子どもに影響を与えすぎないように、介入しすぎないように、という意志がひしひし伝わってくる。
そして、子どももスタッフさんを信頼しきっている。しっかり甘えている。本来なら、子どもは大人に認められるために頑張って「いい子」の枠にはまろうとする。好かれたいがために大人から求められる態度に応えようとする。子どもは見られたくない事をする時(廊下を走ったり、友達を小突いたり)、「あ、やべ。」という顔をしっかりする。そんな顔をさせているのは私だ。結局、彼らは好かれるための言動を考えている。その根底には、「怒られたくない」というネガティブな欲求もあるかもしれない。
けれど風越はそんな表情をする子どもはほぼいなかったように見える。しっかり人に甘えて、自分に自信がある。自分は何をしようと嫌われない、という自負とスタッフさんへの信頼があった。
「これつまんない。」
こんな言葉、スタッフさんとの信頼関係がないと絶対言えない、私だったら頑張って考えた授業にそんなこと言われたらショックだし。でもスタッフさんは対等に受け止めているように見えた。

対等って何?

今回、運良く7年生と9年生と関わる機会に恵まれた。
そこで子どもたちの思いや考えを聞くことができた。聞いたテーマは2つ。
①子ども時代にどんな経験が大切だと思うか
②風越で働く大人にはどんなふうにあってほしいか
これらは、視察に参加した大人の中から出た問いをゴリさんがピックアップして聞いてくれたものだ。7年生から9年生の考えを聞くと、この年でこんなに自分の気持ちを言語化できるんだ!と驚かされた。
彼らが答えた経験としては、何か好きなものを一つもつこと、何にでもチャレンジしてみること、自分の軸をもつことだった。できた!という経験は強いらしい。彼らはたくさん挑戦して参加してみたけれど、意外にも、合わないものは抜けたり辞めたりしたようだった。自分の適性を見極め、本当に興味のあるものやスキという気持ちをもっている。これは、大人もぜひ見習いたい。合わないところにずるずるいたって、得るものはきっと少ないと思うから。
というか、もう彼らと私の間に子どもと大人という言葉を使うのもナンセンスだと思う。あれだけ自分の頭で考え試行錯誤し、行動している彼らを子どもと一括りにするのは失礼だと思った。
次に、風越で働く大人にはどんなふうにあってほしいか。みんなの想いが溢れる場だった。対等でいてほしいというキーワードが一番出ていたように感じる。
彼らは自分たちがつくり手であるというということをよくわかっている。それは授業も例外ではないらしい。授業にただ参加しているだけなのは違う、一緒に授業をつくっているんだという気持ちが溢れていた。対等だからこそ、この授業の在り方は違うんじゃないか、という想いが出てきた子もいた。そうか、そんな想いだったのか。それにしてもやはり、自分の素直な気持ちをスタッフさんに言えるのはすごい。とても健全な関係だと思う。
そこで出てきたのが、結局、対等って何?という問いだ。何をどうしたら対等になるんだ?という気持ちがむくむく出てきた。
これはお互い持ち帰って考えようね、と彼らと約束した。

風越にあるもの、ないもの

風越には自由と責任がある。
風越には文化がない。
けれど、その文化はいま、子どもが、スタッフが、保護者がつくり手として模索しながらつくっている。ないからこそつくっていく。
自分のものさしもつくっていく。
そして「」になる。
なんにもないけど、なんでもある。
ここにはたくさんの可能性があると感じる学校だった。

百聞は一見にしかずとはよく言ったもので、あの空間を一目見ればきっといろいろなことが見えてくる。すべての子どもに幸せな子ども時代を過ごしてほしい。
そんな願いのつまった学校だった。


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