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フロム『愛するということ』の要約

お世話になっております。まるです。
本日は、ドイツを代表する精神分析の研究家フロムによる世界的ベストセラー思想書『愛するということ』の要約を記載したいと思います。
ぜひ最後まで読んでいただけると幸いです。

『愛するということ』について

  • 1956年に出版された、愛の本質について分析を行なった思想書。

  • タイトルの通り、愛に関する本であるが、「安易に愛されるには、モテるにはどうすればよいか」といったことは一切書かれていない。この本の前提として、「人を愛するためには、自分の人格全体を発達させるように全力で努力しなければいけない」というのがフロムの考えである。その上で、愛というものについて本質を理解し、実践するためにはどのような習練を積めば良いか、ということが記載された本である。

  • 本書では愛についての記載のほかに、フロイトに対する批判、宗教に関連する話題、資本主義への疑問などが提示されているが、この記事ではそのような部分の大半は省略して要約を行う。

はじめに

  • 愛は技術だろうか。それとも快感の一種だろうか。技術であれば学ぶことで得ることができる。一方で快感の一種であるならば、経験できるかどうかは運次第でもある。この本では「愛は技術である」という立場をとる。つまり、学ぶことで愛は得ることができる。

  • 一方で多くの人は「愛について学ぶべきことはない」と考えている。その原因は大きく分けて三つある。

    • 第一の原因は多くの人が「愛する」ことより「愛される」ことに関心があるということだ。世間で一般に思われている「愛される」ための方法は、社会的に成功し、多くの友人を得て、人々に影響を及ぼす人間になるための方法と同じだ。言い換えれば、「愛される」というのは、人気があることとセックスアピールがあるということを合わせたようなものだ。だが、「愛される」ことを前提とすることは、愛の本質ではない。むしろ「愛される」より「愛する」ことのほうが愛の本質にとって重要である。

    • 第二の原因は多くの人が「愛は能力の問題ではなく、対象の問題だ」と考えていることだ。言い換えれば多くの人が「愛することは簡単だし、私には人を愛する能力はある。しかし愛するに相応しい相手、つまり愛する対象に巡り会うのは難しい」と考えている。だが愛は対象の問題ではなく、むしろ能力の問題である。

    • 第三の原因は、「恋に落ちる」という最初の経験と「愛する人と共に生きる」という持続的な状態とを、混同していることだ。たしかに愛について学ばなくても、誰もが恋に落ちるという素晴らしい体験をしたことはあるため、いまさら愛について学ぶ必要はないように感じる。しかしこの種の愛は長続きしない。持続的な愛のためには、技術の取得が必要だ。

  • 上述のように、「愛について学ぶべきことはない」というのは単なる思い込みであり、実際、多くの人が大きな希望と期待と共に愛がはじまり、決まって失敗に終わる。だが、愛することをやめることはできない。そのため、愛の失敗の原因を調べて、そこからすすんで愛の意味を学び、愛の失敗を克服していくことが重要である。そしてそのためには、「愛は技術である」ということを知る必要がある。

  • 音楽、絵画、医学など、さまざまな技術についてと同様、愛の技術を取得するには三つの要素がある。まず理論に精通すること、次に理論を基に習練する、つまり実際の経験をたくさん積むこと、最後に「愛の技術を身につけたい」と心から思うこと、この三つが、愛の技術の取得には重要だ。この流れに従い、この本ではまず愛についての理論について論じる。続いて愛の習練について述べる。愛の技術について大きい関心を払うことについては、読者に委ねられている。

愛の理論の基礎

孤立感の解決策と愛

  • 人間の最も強い欲求は、孤立を克服したいという欲求だ。この欲求を満たすために、人類はさまざまな解決策を生み出してきた。この解決策は、人類の発達の過程により異なる。

    • まだ人類が自然との一体感を抱いている頃は、孤立感を感じることも少なかった。この頃の人類は動物の仮面をかぶったり、トーテムや動物神を崇拝する時代である。しかし、人類がこうした原初的な絆から抜け出すにつれて、自然との一体感が薄れ、孤立感が深まっていく。

    • 次の段階の解決策は、祝祭的興奮状態、いわゆるお祭り騒ぎのようなものだ。これは催眠状態を利用することもあれば、麻薬の助けを借りたり、乱交の儀式による性的絶頂感を用いる場合もある。束の間の高揚状態のなかで、外界は消え失せ、それと共に外界からの孤立感も消える。またこのような儀式は集団で行うため、一体感が加わる。祝祭的興奮状態の参加者は、しばらくは孤立感にそれほど苦しまずに済むようであり、再度孤立感が強まると儀式が繰り返される。部族全員がこの儀式に参加する限り、参加することは正しいこと・美徳であり、罪悪感を覚えたり恥じたりする必要はない。

    • 祝祭的興奮状態のような共同の行事を捨ててしまった社会に生きる個人は、代わりの解決策として酒や麻薬、愛のないセックスに溺れることがある。これは先ほどとは異なり、罪悪感や恥を伴う解決策である。孤立感から逃れようとして酒や麻薬、愛のないセックスに逃げた人々は、興奮状態に過ぎるとさらに孤立感が深まり、ますますそれらの助けを借りるはめになる。

    • 以上の人類の発達過程に伴う孤立感への解決策に対して、過去から現在において広く知られてきた解決策が「集団への同調」である。つまり、他の人と違った思想や感情を持たず、習慣・服装・思想において同調することで孤立感から救われることである。上で見てきた興奮状態による合一体験は「強烈であり」「肉体にも作用し」「長続きしない」ものであったが、集団への同調は正反対である。つまり「おだやかであり」「精神にのみ作用し」「長続きする」ものである。一度同調の仕方を学べば、集団との接触を失うことは無いという利点はあるが、穏やかであるため孤立からくる不安を癒すには不十分であり、興奮による合一体験を選ぶ人も多い。現代社会で見られるアルコール依存症・薬物依存症・セックス依存症・自殺などは、集団への同調が必ずしも上手くいっていないことのあらわれと言える。また現代社会における集団への同調は没個性化に近く、自分が人間であることや、唯一無二の個人である事を忘れてしまうことに繋がる。

    • 興奮による合一体験・集団への同調の他に孤立感を解決する第三の方法は、創造的活動である。芸術的なものでも職人的なものでも、全ての創造的活動において創造する人間は素材と一体化し、世界と一体化することで孤立感を解決する。ただしこの事が当てはまるには、生産的な仕事、つまり自分自身で計画し、生産し、自分の目で仕事の結果を見るような仕事のみである。現代の労働の仕組みのもとで、つまり機械や会社組織の付録としての働き方では同調以上の一体感は得られない。

  • 上述のように、興奮による合一体験、集団への同調、創作的活動のいずれもが、孤立感を完全に解決できない。これを完全に解決するのが、人間同士の一体化、他者との融合、すなわち愛である。

  • それでは一体、ここで述べる愛とは一体何なのか。結論から言えば「愛は能動的な活動であり、自分の生命を与えるという要素を含むもの」である。ここで、「愛」、「活動」、「与える」という言葉を詳しく定義しておこう。

「愛」「活動」「与える」の定義

  • 人々が愛という言葉を使う時、「熟慮の末の答えとしての愛」を指す場合もあれば、「共生的結合とでも呼びうる未成熟な形の愛」のことを指す場合もある。この本では前者だけを「愛」と定義するが、はじめに後者の「いわゆる愛と呼ばれるもの」から議論をしてみよう。

    • 共生的結合の生物学的な形は、妊娠している母親と胎児の関係に見られる。母親と胎児はふたりであると同時にひとりである。一方で心理的な共生的結合の場合には、ふたりの体はそれぞれ独立しているが、心理的には結合していることになる。

    • 共生的結合の受動的な形は、服従の関係であり、マゾヒズムとも呼ばれる。マゾヒスティックな人は、耐え難い孤立感から逃れるために、ある人に支配され、その人のことを全てだと思い、自分を無に帰す。

    • 反対に共生的結合の能動的な形は支配であり、サディズムとも呼ばれる。孤独感から逃れるために、他人を自分の一部にしてしまおうとする。そのため、実はマゾヒスティックな人が支配してくれる人に依存しているのと同じくらい、サディスティックな人も自分に服従する人物に依存しており、どちらも相手なしには生きていけない。

    • 共生的結合とは対照的に、成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。この成熟した愛(すなわち本書で単に「愛」と呼ぶもの)によって、人は孤独感を解決するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。言い換えると、愛においては、ふたりがひとりになり、しかも、ふたりでありつづける。

  • 「活動」という言葉は、現代において二つの意味を持つ。

    • 1つ目の意味は、「自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐこと」である。つまり事業に取り組んだり、テーブルをつくったりと、達成すべき目標が自分の外側にあるとき、活動という言葉が使われる。ここで、活動は必ずしも能動的では無いことに注意する。例えば、強い不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事をする人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらも自分の意思ではなく、駆り立てられているという意味で、能動的ではなく受動的であり、そこに自由は無い。

    • 2つ目の意味は、「外界の変化に関わりなく、自分に本来備わっている力を用いる」ということである。例えば精神を集中した瞑想は、一見外見的には何もしていないので受動的と言われるが、実際は内面的な自由と自立がなければ実現できない、魂の活動であり、能動的なものである。

    • この本の中で「愛は活動である」と言った時は、後者の意味での「活動」が用いられていると思えば良い。

  • 最後に「与える」とはどういう事だろうか。この言葉も多義的な意味を持つ。

    • 非生産的な性格の人は、与えることは貧しくなることだと感じている。即ち与えることとは、何かをあきらめること、剥ぎ取られること、犠牲にすることだと感じている。そのため、このタイプの人はたいてい見返りがない限り、与えることを嫌がる。

    • また、「与えることは犠牲を払う事だから美徳である」と考えている人もいる。このタイプの人は与えることが苦痛だからこそ与えなければならないと考えており、もらうことの喜びより与えることの苦痛が良いと思っている。

    • 一方で生産的な性格の人にとって、与えることはもはや何かを犠牲にすることでも苦痛でもない。このタイプの人は、与えることを、自分のもてる力の最も高度な表現と考えており、与えるという行為を通じて自分のもてる力と豊かさを実感し、喜びを覚える。この本で「愛とは与えることである」という記述がなされた場合、「与える」という言葉の意味はこの意味においてである。

  • 上述した、孤立感に対する完全に解決策としての「愛」は、今述べた「愛」「活動」「与える」という言葉を用いて「愛は能動的な活動であり、自分の生命を与えるという要素を含む」と表現できる。

  • ここで「自分の生命を与える」とは、他人のために自分の生命を犠牲にするということではない。そうではなく、自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもの全てを与えることである。

  • このように人は自分の生命を与えることで他人より豊かする。もらうために与えるのではなく、与えること自体がこの上ない喜びなのだ。だが、与えることによって、必ず他人の中に何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。与えることは他人をも与える者にする。すなわち、愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない。

愛に見られる能動的な基本的要素

  • さて、先ほど「愛は能動的な活動である」と述べた。実際に愛は与える行為を含むため能動的であるが、その他、どのような形の愛にも、必ず共通する能動的な基本的要素が見られる。その要素とは、配慮、責任、尊重、知である。

  • 配慮について:愛には、愛するものの生命と成長を積極的に配慮する要素が不可欠である。例えば、もし母親が子どもにたいする配慮が欠けていたら、つまり子どもに食べ物をあげたり、風呂に入れたり、快適な環境を与えるのを怠っていたら、愛しているとは言えないだろう。

  • 責任について:今日では責任というと、大抵は義務、つまり外側から押し付けられるものとみなされている。しかし本当の意味での責任は、他人が何かを求めてきた時に、応答することであり、完全に自発的な行為である。例えばこの責任は、母子関係について言えば、生理的要求への応答を意味し、大人同士の愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。

  • 尊重について:この言葉の意味は他人がその人らしく成長発展していくように気づかうことである。これが欠けていると、人間関係は容易に支配や所有へと堕落してしまう。いうまでもなく、自分が自立していなければ、人を尊重することができず、自由であって初めて人を尊重できる。

  • 知について:その人に関する知がなければ、配慮も責任もあてずっぽうに終わってしまう。愛の一側面としての知は、他人に対する表面的なものではなく、核心にまで届くものである必要がある。自分自身に対する関心を超越して、相手の立場に立ってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

愛の発達

愛の能力の発達

  • 人間は生まれてからどのような過程を経て、愛を与える存在へとなるのだろうか。

  • 生まれてからしばらくの間は、生まれる前の状態とほとんど変わらず、物を見分けることはできないし、まだ自分という意識もないし、世界が自分の外側にあることも分かっていない。外部にあるものは、それ自体の性質や必要性に関わりなく、自分の要求との関わりにおいてしか存在しない。

  • やがて成長に伴って、子どもはあるがままに知覚できるようになり、事物を名前で呼べるようになる。人間をどう扱えばいいかも学ぶ。例えば、食べれば、母親は微笑むし、泣けば、抱いてくれる。これらすべての経験が統合されて、私は愛されているという経験へと結晶する。母親に愛されるという経験は受動的で、無条件であり、生きているだけで受けることができる一方、コントロールしようと思ってもできるものではなく、自分では何も作り出せない。子どもにとって大事なのはもっぱら愛されることであり、まだ愛を与えることはできない。

  • 八歳半から十歳の年齢に達すると、自分の活動によって愛を生み出すという新しい感覚が生まれる。子供は親に何かを贈ること、つまり詩を書いたり、絵を描いたりすることを思いつく。生まれて初めて、愛という観念が、愛されることから愛することへ、愛を生み出すことへと変わる。もっとも、こうして芽生えた愛が成熟するにはまだ長い年月がかかる。

  • 思春期に差し掛かると、子どもは自己中心主義を克服する。愛されるより愛する方が、より満足のいく、より喜ばしいことになり、他者との結びつきや、分け合うこと、一体感といったものを知る。

  • 幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則に従う。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則に従う。未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

愛の対象の発達

  • 愛の能力の発達と密接に関連しているのが、愛の対象の発達、つまり「誰から愛を学ぶか」ということである。愛の対象は、母性的愛着から父性的愛着へと移行し、最後には双方が統合されるという発達を行う。

  • 生まれてから数ヶ月間あるいは数年間、子どもが一番愛着を抱く対象は母親である。母性的な愛は本質的に無条件であり、受けるために特別な資格はいらない。それに対し、長所があるから愛されるとか、愛される価値があるから愛されるといった条件付きの愛は、常に愛してもらいたい相手の気に入らなかったのではないかという疑念が残ってしまう。そのため、無条件である母性的な愛は、子どもだけでなく全ての人間が心の奥底から憧れているものの一つである。

  • 父親との関係は、それとは全く異なる。子どもが生まれてから数年間は、父親の重要性は母親のそれとは比べものにならないほど小さい。母親が生まれた家であり、自然界を表すなら、父親は人間のせいのもう一方の極、すなわち思考、人工物、法と秩序、規律、旅と冒険などの世界を表しており、ここから受ける愛は条件付きの愛である。この条件付きの愛は、受けるには資格が必要であり、期待に応えなかったときにはその愛を失うことにつながるが、この愛は得るために努力することができる。言い換えれば、父性的な愛は母性的な愛とは異なり、自分でコントロールができる。

  • 子どもが対象とする愛は母性的な愛から父性的な愛へと移行するが、これは子ども自身の必要性にも対応している。幼児のころは自身の安全を守ってくれる母性的な愛を享受し、六歳を過ぎると社会が押し付けてくるさまざまな問題に対処できるよう、父性的な愛を受けるようになる。

  • やがて子どもは成熟し、母親的良心と父親的良心を併せ持った状態に達する。この二つは互いに矛盾しているように見えるが、成熟した人間はその両方によって人を愛する。

愛の対象

  • 愛とは、特定の人間に対する関係ではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。もしひとりの他人だけしか愛さず、他の人々には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。

  • ただし、愛がひとりだけでなく全ての人に対する態度であるといっても、愛する対象によって愛にもさまざまな種類がある。以下ではそのような愛の種類を順番に見ていく。

友愛

  • あらゆるタイプの愛の根底にある最も基本的な愛は、友愛である。ここで言う友愛とは、あらゆる他人に対する配慮、尊重、責任、知のことであり、その人の人生をより良いものにしたいと思う願望のことである。

  • 友愛とは人類全体に対する愛であり、その特徴は排他的なところが全くないことである。人は友愛において、全ての人間との合一感、人類としての連帯意識、人類全体が一つになったよう一体感を味わう。

  • この同一感を体験するためには、全ての人間が持つ人間的な核は同一であり、それに比べたら、才能や知性や知識の違いなどは取るに足らないことを理解することである。もし他人の表面しか見なければ、違いばかりが目につき、そのために相手と疎遠になってしまう。

  • 全ての人間的な核が同一であるということは、全ての人間は小さな差を除けば対等であることを意味する。そのため、友愛は対等の者同士の愛である。

母性愛

  • 母性愛は、上述した通り子どもの生命と要求に対する無条件の肯定である。

  • 子どもの生命の肯定には二つの側面がある。一つは子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な、気づかいと責任である。もう一つの側面は、たんなる保護の枠内にとどまらず、生きることへの愛を子どもに植え付け、「生まれてきてよかった」という感覚を子どもに与えるような態度である。

  • 母性愛の本質は子どもの成長を気づかうことであり、これは子どもが自分から離れていくのを望むと言うことだ。ここに恋愛との根本的なちがいがある。恋愛では、はなればなれだったふたりが一つになる。母性愛では、一体だったふたりが離れ離れになる。母親は子どもの巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。支配的な母親や所有欲の強い母親はこれを実践できず、本当に愛情深い女性、すなわち受け取るよりも与えることにより大きい幸せを感じ、自分の存在にしっかり根を下ろしている女性だけが、子どもが離れていく段階になっても愛情深い母親でいられる。

  • 母親が幼児を愛するのは簡単この上ないため、一見、母性愛の実践は簡単なように思えるが、上記の本質のために、成長しつつある子どもに対する母性愛を実践するには「全てを与え、愛する子どもの幸福以外何も望まない能力」が求められる。そのため、おそらく実現するのが最も難しい愛の形でもある。

  • 上記の母性愛の説明は自分の子どもを育てる際の話であったが、この話は「子ども」を「無力な者」と置き換えても成立する。つまり母性愛とは、無力な者への愛であり、自分の助けを必要としている者全てを愛することへと一般化できる。

恋愛

  • 恋愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという願望である。

  • 友愛は対等な者どうしの愛であり、母性愛は無力な者への愛である。この二つは互いに異なってはいるが、対象が一人に限定されないと言う点で共通している。一方で恋愛は、この二つの愛のどちらとも違う。恋愛はその性質からして排他的であり、全ての人に向けられる者ではない。また、おそらく最も誤解されやすい愛の形である。

  • 恋愛はしばしば、恋に「落ちる」という劇的な体験と混同される。しかしこの体験は単なる激しい感情でしかなく、長続きしない。その結果、まだよく知らない新しい人との愛を求めては破局することを繰り返す。

  • この誤解を支えるのが性欲である。多くの人は性欲を愛と結びつけて考えているので、ふたりの人間が肉体的に求め合う時は愛し合っているのだと誤解している。しかし性欲はどんな激しい感情とも結びつくため、愛以外にも、孤独の不安や、征服したいとかされたいとかいう願望や、虚栄心などによっても掻き立てられる。愛がない肉体関係は、幻想から目覚めたとき、ふたりは自分たちが互いに他人であることを今まで以上に痛感して孤立を深めることすらある。

  • 恋愛は、友愛や母性愛には見られない排他性があるが、しばし所有欲にもとづく執着だと誤解されている。この誤解が生じるとき、お互いがお互いを所有しあい、当事者のふたりが他の人には目もくれないということはよくある。しかしこの状態は、ふたりはふたり以外の全ての人から孤立しているので、二人が味わう一体感は錯覚に過ぎない。

  • 真の恋愛はそれを通して、人類全体すべてを愛することにつながる。すなわち恋愛は人生の全ての面において全面的にかかわるという意味では排他的であるが、人類全体に対する深い友愛を排除することはない。

  • 恋愛は本質的には、意思に基づいた行為であるべきである。つまり、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。このことについてもしばしば現代社会で誤解されており、恋愛は意思とは無関係に自然に生まれるものであり、自分ではコントロールできない感情に突然捕らわれるのが愛なのだと考えられている。もし愛がたんなる感情にすぎないとしたら、愛は唐突に生まれ、唐突に消える一時的なものになってしまうが、そのようなものは愛とは呼ばない。

  • 以上の議論を考慮すると、人によっては次のような考えに至るかもしれない。すなわち人間の本質は核の部分では等しく、また愛は本質的に意思に基づく行為であるべきであるため、「恋愛は意思による決断の行為であれば、当事者ふたりが誰であるかは基本的に問題なく、どんなことがあっても恋愛関係を解消しないことが愛なのだ」という考えである。これもまた誤解である。というのも、人間の核は全員同じだが、恋愛は自分の全人生と相手の全人生との関わり合いであるという性質から、一人一人にしか見られない、特殊で極めて個人的な要素が重要になってくる。これは人類の差を「表面的であり、取るに足らない要素」とみなす友愛の性質とは真逆である。そのため、恋愛はうまくいかなければ解消すれば良いという行為は意思に基づいていない行為であるため間違っているが、恋愛はどんなことがあっても解消してはいけないという考え方もまた間違っているのだ。

自己愛

  • しばしば、他人を愛するのは美徳だが自分を愛するのは罪だという考える人がいる。自己愛が利己主義と同じだと考えられたり、自己愛が強い人はそこにエネルギーが流れ、他人へ割ける愛が少なくなる排他的なものだと考えられたりすることがある。しかし、それらは全て誤解である。

  • 他人に対する愛と自分への愛は両立しないという考えが間違っているということは、心理学上の前提からもわかる。心理学上の前提では、他人に対する態度と自分に対する態度は矛盾しているどころか、基本的に結びついている。これを愛の問題に重ね合わせてみると、他人への愛と自分への愛は二者択一ではないということになる。それどころか、自分を愛する態度は、他人を愛せる人すべてに見られる。自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。

  • また、利己主義と自己愛については、実は同じどころか正反対である。利己的な人が自分いたいする愛情と配慮を欠いているのは、その人が生産性に欠けていることの表れに他ならない。自分を愛し過ぎているかのように見えるが、実際には、ほんとうの自己を愛せないことをなんとか埋め合わせ、ごまかそうとしているのだ。

現代社会における崩壊した愛

  • この章では、現代社会の中でとりわけよく見られる崩壊した愛の例について述べる。

  • 母親中心型の男は、情緒的発達の面で母親への幼児的愛着から抜け出していない男たちである。無条件に与えられる愛を欲しがり、女性の愛に、愛情深い母親が可愛い子供に見せる態度と比べて、ちょっとでも欠けているところがあると、愛情が足りない証拠だと受け取る。ふつう、この種の性格は、子どもを飲み込もうとする破壊的な母親に育てられた場合に起きる。

  • 父親中心型の男は、母親が冷淡でよそよそしく、いっぽう父親が自分の愛情と関心を全ての息子に注いだ場合である。この場合、父親を喜ばせることが人生の目的になり、それが上手くいけば幸福感をおぼえるが、まちがえたり、何か失敗したりして、父親の機嫌を損ねると、自分は愛されていないのだと感じる。大人になってからは、父親と同じように慕うことのできる人生を探す。

  • 愛し合っていないのにもかかわらず、自制心が強いため、喧嘩したり、不満を表に表したりはしない両親に育てられた子どもは、愛における神経症的な障害がさらに複雑になる。両親が互いによそよそしく、子供に対する態度もぎこちない。両親が何を考え、どんなふうに感じているのか、子どもには見当がつかない。その結果、子供は自分の殻に閉じこもり、その後の愛情関係においてもそうした態度を保ち続ける。

  • 偶像崇拝的な愛は、愛する人を偶像化し、至高善として崇拝する。愛する側はまったく無力になり、自分を見失ってしまう。愛される側はふつう、いつまでも相手の期待通りに生きることはできないから、愛する側は必ずや失望することになる。そしてここから立ち直るために、新たな偶像を探す。時にはそれが何度も繰り返される。この偶像崇拝的な愛はしばしば真の愛、大恋愛として描かれる。それだけ強烈で深いと考えられているからだが、そのように見えるのは、崇拝者の渇望と絶望が深刻だからである。

  • 感傷的な愛は、愛が、現実の他人との関係において経験されるのではなく、もっぱら空想の中で経験されることである。映画や小説やラブソングの愛好者たちが経験する「身代わりの愛の満足感」は、このタイプの愛のもっとも一般的な形だ。空想上の愛には簡単に感情移入できるのに、生身の人間同士となると冷え切った関係になってしまう。

  • 投射のメカニズムにより、自分自身の問題を避け、その代わりに「愛する」人の欠点や弱点に関心を注ぐという態度も、神経症的な愛の一つの形である。この手の人間は、他人のどんな些細な欠点もめざとく見つけ、他人を非難し、矯正することに忙しく、自分の欠点には全く気づかず平然としている。

愛の習練

  • 私たちはここまで「愛の技術」の理論的側面について論じてきたが、ここで愛の技術の習練について議論を行う。しかしこの本は「どうしたら人を愛せるか」については語らない。というのも愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はないからである。この本が提供できることは、愛の技術の前提条件についての習練について述べることだけである。

どのような技術の取得にも必要なもの

  • まず、愛に限らず、どのような技術であれ必要なものがある。それは規律・集中・忍耐・最大限の関心である。

  • 規律について:規則正しくやらないのであれば、つまり「気分が乗っている」ときだけやるのでは、どのようなことでも絶対に上達しない。規律を身につけるために重要なのは、外から押し付けられた規則か何かのように規律を積むのではなく、規律が自分の意思の表現となり、楽しいと感じられ、ある特定の行動に少しずつ慣れていき、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようになることだ。

  • 集中について:これが技術の取得にとって必要条件であることは、ほとんど証明不要だろう。集中力を身につけるにあたって、いくつか述べておくことがある。

    • 集中力を身につける方法は、何をする時にも精神を集中させるよう心がけることだ。言い換えれば、今ここで、全身で、現在を生きることだ。音楽を聴く時も、本を読む時も、人とおしゃべりするときも、精神を集中してさえいれば、何をしているかは重要ではない。なぜならそのような時はどんなことも、あなたの関心を一手に引き受けるため、これまでと全く違って見えてくるはずだからである。

    • 集中力を身につけるために、避けるべきことが二つある。一つはくだらない会話をできるだけ避けることだ。ここで、くだらない会話とは、常套句ばかり使って話し、その言葉に心がこもっていない場合だ。そのため、政治や宗教について論じられている場合でも、くだらない会話になることもある。また、くだらない会話を避けることと同じくらい重要なのが、悪い仲間を避けることだ。悪い仲間とは、あなたをだめにしようとする悪意ある人たちのことだけでなく、肉体は生きているが、魂は死んでいるような人も含む。また、くだらないことばかり考え、くだらないことばかり話すような人間も避けた方が良い。

    • 集中力は、自分に対して敏感にならなければ身につかない。例えば気が滅入ったりした時、どうして私は気が滅入るのだろうかと自問することが、敏感になるということに当たる。ここで重要なのは、変化に気づくことと、手近にある、ありとあらゆる理屈を持ち出してその変化を安易に合理化しないことである。それに加えて、内なる声に耳を傾けることだ。

  • 忍耐と最大限の関心についても、これらは技術を身につけるための必要条件である。

愛の技術の取得に特別必要なもの

  • ここまでは、愛に限らずどんな技術の習練にも必要なことについて論じてきた。これから、愛の能力にとって特別な重要性を持つ特質について論じていく。それらは何かというと、ナルシシズムの克服、「信じる」ことの習練、勇気を持つことである。また、愛の習練に欠かせない姿勢として、能動性は重要なものである。

  • 愛を達成するには、まずナルシシズムを克服しなければならない。ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。言い換えれば、ナルシシズムによって歪められた世界を見ている。これを克服するために、客観的に考える力、すなわち理性を育てる必要がある。また理性の基盤となる感情面の姿勢である謙虚さを身につけなければならない。そしてそのためには、どういう時に自分が客観的でないかについて敏感になる必要がある。

  • 愛の技術の習練には「信じる」ことの習練も必要となる。このことについてはいくつか述べるべきことがある。

    • ここで「信じる」ということは、根拠のない信念、つまり道理にかなわぬ権威への服従に基づいた信仰のことではない。そうではなく、ここでいう「信じる」とは、理にかなった信念、つまり自分の思考や感情の経験に基づいた確信である。

    • 理にかなった信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力に対する自信に根ざしている。根拠のない信念は、ある権威、あるいは多数の人々がそう言っているからというだけの理由で、何かを心理として受け入れることだ。それに対して、理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自身の生産的な観察と思考に基づいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。

    • 愛に関して重要なのは、自分の愛に対する信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、人の中に愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

  • さらに、信念を持つには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念を持てない。愛されるには、そして愛するには、ある価値を、これが一番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値に全てを賭けるような勇気が必要だ。

  • 信念と勇気の習練のための第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るか、それをどんな口実で正当化しているかを詳しく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむく、といった悪循環に気づくだろう。また、「人は意識の上では愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識の中で、愛することを恐れている」ということもわかるはずだ。人を愛するこということは、何の保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛せない。

  • 愛の習練にあたって欠かせない姿勢が一つある。それは能動性である。能動とは単に「何かをする」ことではなく、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。思考においても感情においても能動的になり、内的な怠慢を避けることは、愛の技術の習練にとって欠かせない条件の一つである。愛情面では生産的だが、他のすべての面では非生産的、ということはありえない。人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなくてはならない。そしてそのためには、愛情面以外の生活の他の面でも生産的かつ能動的でなければならない。愛以外の面で生産的でなかったら、愛においても生産的になれない。

要点整理

  • 人間の最も強い欲求は、孤立を克服したいという欲求である。これを完全に解決するのが「愛」である。

  • 本書で述べる「愛」は以下のような性質を持つ。

    • 愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの、他人との結合である。

    • 愛は、能動的な活動であり、内面的な自由と自立がなければ実現できない、魂の活動である。また他の能動的な活動と同様、「配慮、責任、尊重、知」の4つの要素が見られる。

    • 愛は、自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもの全てを、喜んで与えることである。

    • 愛は、母性的な無条件の愛と、父性的な条件付きの愛の二側面があり、成熟した愛は成熟した人間はその両方によって人を愛する。

  • 一言に愛といっても、愛する対象によってさまざまな種類がある。

    • 友愛は、あらゆる他人に対する配慮、尊重、責任、知のことであり、その人の人生をより良いものにしたいと思う願望のことである。友愛の実行には、人間の核は全て同一であることを理解することが大切である。友愛は対等な者同士の愛である。

    • 母性愛は、自分の助けを必要としている者全てを無条件に愛することである。つまり母性愛とは、無力な者への愛でもある。

    • 恋愛は、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという願望である。恋愛は意思に基づいた行為であるべきであり、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。その意味において恋愛は排他的であるが、真の恋愛はそれを通して、人類全体すべてを愛することにつながり、人類全体に対する友愛を排除することではない。また恋愛においては一人一人にしか見られない、特殊で極めて個人的な要素が重要になるため、恋愛は意思に基づいた行為であるべきとはいえ、どんなことがあっても恋愛を解消してはいけないというわけではない。

    • 自己愛は、自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することである。これは他者への愛とも両立し、また利己主義とも異なる。

  • 愛の技術を習練するには、いくつか必要なものがある。

    • 愛も技術である以上、他の技術の取得と同様に規律・集中・忍耐・最大限の関心が必要である。

      • 規律を身につけるために重要なのは、外から押し付けられた規則か何かのように規律を積むのではなく、規律が自分の意思の表現となり、楽しいと感じられ、ある特定の行動に少しずつ慣れていき、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようになることだ。

      • 集中力を身につける方法は、何をする時にも精神を集中させるよう心がけることであり、また自分に対して敏感になることが重要だ。

    • また他の技術とは異なり、愛の技術の取得に特別必要なものもある。それは、ナルシシズムの克服、理にかなった信念、勇気を持つことである。また、愛の習練に欠かせない姿勢として、能動性は重要なものである。

      • ナルシシズムの克服は、言い換えれば客観的に世界を見ることであり、そのために理性を育てる必要がある。また理性の基盤となる感情面の姿勢である謙虚さを身につけなければならない。そしてそのためには、どういう時に自分が客観的でないかについて敏感になる必要がある。

      • 理にかなった信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力に対する自信に根ざした確信である。愛に関して言えば、自分の愛は信頼に値するものであり、人の中に愛を生むことができる、と確信することが大事である。

      • 勇気は、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。愛されるには、そして愛するには、ある価値を、これが一番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値に全てを賭けるような勇気が必要だ。

      • 信念と勇気の習練のための第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るか、それをどんな口実で正当化しているかを詳しく調べることである。

      • 能動性は、愛の習練に欠かせない姿勢である。能動とは単に「何かをする」ことではなく、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。人を愛するためには、愛情面かその他生活面かに関わらず、思考・感情の両方において、生産的かつ能動的でなければならない。


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