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声優不要論

なかなか攻撃的なタイトルを設けてしまったものだと自分でも既に荷が重い。

アニメ制作において「声優」という役割は神格化されすぎているのではないかという話だ。

1963年の第1次アニメブームから今に至るまで様々なアニメーション作品がこの世の中に放たれてきた。日本のアニメ文化が、国内はもちろん海外圏でも高い評価を得ているのは今では議論の余地も無いだろう。

アニメブーム火付け役「鉄腕アトム」

そのアニメ文化に伴い頭角を現したマーケットが異様な速度で成長し歪な形を築き上げたのが「声優業界」である。昨今ではさらにマネタイズし安く「声優のアイドル化」まで進んでいる。

1970年から始まる「声優ブーム」により、現在に至るまで際限なく肥大化し続けた結果が昨今の声優のアイドル化という現状だ。

さて、ここでアイドル化した声優をを非難し始める前に(趣旨とはズレる為)、本題である「声優不要論」に話を戻すとする。

まずアニメーション作品の本質を探る。

本来、アニメーション作品というものは「監督」のものであり、「アニメーター」や「声優」の思想、主張が作品内に影響を及ぼすものでは無い。
言わば、その他スタッフは監督の作品を再現するための道具に過ぎないわけである。

そこで有名な声優を起用した場合を考える。
「有名」な声優である時点で、世間一般(アニメ業界におけるターゲット層)にその声が認知されているわけである。
すると、その声優目当てで見に来る顧客含め、声を知っている顧客の脳内でメタ的な認知をアニメ作品内に持ち込んでいる状況となる。

果たしてこの状況は、純粋に監督の作品を再現出来ていると言えるだろうか。
「有名な声」が監督の作品内世界を汚染しているのではないだろうか。

野沢雅子が声優を務める作品を見ると端々に悟空を感じてしまう。それこそが「ノイズ」になり得る。


この問題に対し積極的に解決策を模索し制作しているのが「ジブリ作品」である。

スタジオジブリ作品の多くは声優の起用に消極的である。声の仕事に従事せず、かつ演技力に問題が無い俳優や女優を起用することがほとんどである。全くの素人を起用する事も珍しくない。

本来アニメーション作品において演技力に余程の問題が無ければこの判断こそ正しいだろう。
作品内を「娼婦の声」(宮崎駿に言わせれば)に汚染される事無く、受け取り手の脳内に監督の世界を限りなく再現させられる。ノイズが少ないのである。

アドリブや自分の解釈を表現に付け加えようとしたが全てを高畑勲に却下され不機嫌になるミヤコ蝶々。


声優の中にはアニメ業界に携わっている分、
自分の中に思い描く人物像や演技論などアフレコに関するものに一家言ある事は多いだろう。
声優ファンもそこに心酔している事も多いはず。

だが、その様な声優自信が持つ声質以外の自我・考え方は全て監督に帰属するものとし、尊重されるべきでは無い。

前述した通り、有名な声優というものは声質が世間に認知されている。つまり、有名であればあるほど役の幅が狭まるという事だ。
ジブリの前例もある通り監督の世界観を完全顕現させたければ無名の(メタ的認知による汚染が少ない)声優を使うしかない。であれば演技力に問題が無い俳優・女優を使用する方が確かに効率的である。プレスの観点からでもそちらの方が動きやすいだろう。

有名な声優を起用するとメタ認知汚染による世界観の崩壊が起こり、無名の声優を起用すると演技力に問題がある。問題が無い場合はいずれ有名声優に成長してしまうというジレンマ。

以上により俳優・女優の起用・または、声の認知機会が少ない人間の一時的使用の方がより効率的であり、
これらは「声優」という職業の存在意義に疑問点が生じるものである。


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