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プロメテウスの轟音

映画『オッペンハイマー』は原爆軽視・肯定映画では無いが、配慮にかける展開・構造である。


4月1日『オッペンハイマー』を新宿バルト9にて観賞してきた。
天下のクリストファー・ノーラン監督作品と言えど原爆をテーマにした作品故に取り扱いには相当議論を重ねていただろう。
今回配給を担当したビターズ・エンドには感謝を伝えたい。

日本で公開する事に意味がある。




「ノーラン映画」

初見のインパクトは「テネット」や「インターステラー」とほぼ同じ。
圧倒的迫力と情報量・展開スピードで思考を停止させ強制的に面白いと思わせられる、ノーラン節をビシバシと感じた。

劇中のセリフから引用するが「心臓に悪い」シーンが度々登場する。
爆音のSEに、鳴りっぱなしの音楽、字幕を追いかけるので精一杯のセリフ量・爆速のカット割りとめちゃくちゃな時系列。
自分は「ノーラン映画」を鑑賞しているのだと、これでもかと感じさせられる。


ヒロシマ・ナガサキ

世界唯一の被爆国である日本。
我々日本人にしか無い感覚・見え方が存在する。それは決してノーラン監督にも理解することは出来ない。

本作品では原爆投下時の直接的描写は無い。
投下後の成果報告の場でも被爆者の写真は映らない。(オッペンが目を背けてしまう)

広島・長崎の原爆投下時にオッペンハイマーは前線にいるはずも無いので、オッペンハイマー目線で描かれている本作品に直接的描写が無いのは至極真っ当であると言える。構成としても全く違和感は無い。
だが、成果報告の際に被爆者の写真を1度も映さない(オッペンハイマーが見ない)というのは構成上かなり違和感が残る。
史上では確実にオッペンハイマーは資料を見ていただろうし、1度も目に入らなかった訳は無い。

ノーランが意図的に被爆者、日本の惨状をこの映画の画角(オッペンハイマーの視界)から外しているのである。

被爆者の資料から目を背ける形で描写されており、1度も視界に入れている描写は無い。

前後の文脈から読み取るにこのシーンでの最適解は、「写真・資料には目を通すが、あまりの罪悪感から途中で目を逸らす」が正しいものと思える。我々視聴者もそう捉えるのが正しいだろう。

ノーランがオッペンハイマー越しにもその惨状を見れなかったのか、 グロ要素としての安直な消費を避けたかったのか。はたまた別な要素が絡んでくるのか。

圧倒的に間接的に作り上げられた広島・長崎についての描写・構成の真偽はわからない。


主役は「オッペンハイマー」であり、
「原爆」では無い。

冒頭にある、「映画『オッペンハイマー』は原爆軽視・肯定映画では無いが、配慮にかける展開・構造である。」
という点について触れていく。

この感覚は、確実に「日本人」にしか理解できないだろう。
日本人にとって「原爆」というのはただの「大量殺戮兵器」であり、科学技術の進歩や開発者の存在などを考えるには余りにも受けた傷が深すぎる。
世界唯一の被爆国というのは、そんな事を考える余裕など無く自身の治癒に必死なのである。

本作品では、原爆投下後の描写もかなり長い。
戦後のオッペンハイマーの聴聞会のシーンは冒頭から挟み込まれ最終的に物語の主軸となる。

トリニティ実験で原爆の圧倒的な「力」を目の当たりにさせ、それが我国に投下されるという一代イベントの後の描写が長すぎるのである。
これこそが、日本人に対する「配慮にかける」構造だと感じたものだ。
「映画」という構造上、物語を最後まで飽きさせずに観賞させ、客を楽しませなければならないという事は理解している。

だが、私が日本人な故に今回の映画の後半部分については「もう楽しませようとしなくていい」と感じてしまった。

監督がそんな事を理解・配慮するはずも無く、する必要も無いのはわかっているのだが。

太陽から盗み出した火を人間に与え、ゼウスから怒りをかったプロメテウス

世界の形が変わる

本作品の終わり方はかなり気に入っている。まさに「想像力」での締めくくりだ。劇中の登場人物の想像力でもあり、我々視聴者の想像力でもある。

「原爆というものはただの爆弾では無い」ということを表現するシーンが沢山出てくるが、ラストシーンがまさにそれである。

原爆を開発した以降の世界は、人類自らが地球を滅ぼせる世界に変わってしまった。これまでの世界の形とは全く違うものとなってしまった。
そんな世界に我々は今生きているんだと思い知らされるラストシーン。


まさにあの日・あの時、突如プロメテウスが轟音と共に人類の前に降り立ったのである。








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