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ミチルの空

 ミチルは落ちていく。果てしなく高い空から。彼女の体には翼があった。翼は彼女が望んだものだ。高く、どこまでも飛べる翼がほしいと。
 彼女は翼を欲した。狭い世界から飛び立ちたかった。自分に罵声や暴力を、浴びせる存在がいない世界へ。

  ミチルは寝る前に、目を瞑り想像を羽ばたかせる。想像の中で、自分は自由だと言い聞かせる。自分を縛るものは何もないのだ。自分を押さえつけるものは何もないのだ。あるのは、ただ、無限に宇宙へと伸びていく青い青い空があるだけなのだ。

 ある日、眠りに落ちた。夢の中で、ミチルは、海の底にいた。海のそこの冷たい水の中に彼女はいた。突如として、彼女の体の中からマグマのような熱が生まれた。彼女の熱さで溶けてしまいそうだった。その熱さが体から遠ざかった問、彼女の体には翼が生えていた。

 ミチルは、白い天使のような羽を愛でた。彼女は、窓を開けて、部屋のベランダから飛び出していった。空の高く、高く、より高い場所へと登っていった。彼女の体は成層圏を抜けて、宇宙の入り口にまでやってきていた。青いな。地球を見下ろして、ミチルはそう思った。
「世界は、青くて、広い。この広い世界の中で、小さな世界の中でしか通用しない価値観に悩まされていた」
 私はなんて小さい。ミチルは、しばらく超高層の世界を漂流した。力を抜いて、ただただ、世界の動きに向かって体をさらけ出した。

 ミチルは、元の世界への帰還を決めた。彼女は青い大地を見据え、自身の翼を平らにして、そのまま体を滑空させた。彼女は落下のスピードに酔った。世界の底へと自分の体が落ち込んでいく。 
 自分の中にあるあらゆる穢れがそぎ落とされていくのが感じた。翼が自分自身を自由にしていく。

 すべての穢れが消えた時、彼女の翼も消えていた。
 彼女はベッドの中で目覚めた。頭上にはいつもの天井の景色だけが広がっていた。

 彼女はその日、久しぶりに学校に行った。突然、学校に来たので先生も同級生もみんな驚いた。しかし、彼女は気にしなかった。自分は自分なのだ。
遙か上方から眺めた世界の姿を思い出す。自分の悩みなんて、あれに比べれば小さいものさ。

「久しぶりだね」
 同級生が話しかけてきた。ミチルは、誰かが話しかけてくれるなんて夢にも思っていなかった。
 昔は、他人を受け入れることができなかった。なぜだろう。体が硬かった。言葉も固かった。私は未熟だったのだ。
 ミチルはふっと背中を触った。羽があるか、それを確認したかったのだ。もちろん、背中には羽なんてなかった。あるのは、肩の骨だけだった。
「何を探しているの?」
 背中をかくような仕草がおかしかったのだろう。同級生は小さく笑っていた。
「翼を探しているの」
 ミチルは答えた。
「翼?」
「そう。翼」
 ミチルは、校舎の外の空をじっと見つめた。同級生もつられて空を見た。
「あなたって、面白い人ね。翼を落としてしまったの?」
 同級生はそう言って笑った。
「落としてしまった、のかな」
 ゆらりと、空から小さく白い羽が落ちてきているように思えた。よく見ようと目をこらしても、その羽はもうその姿を残していなかった。
「・・・・・・いや、もとから羽なんてないんだよ」
 チャイムが鳴った。
「じゃあ、また後で」
 同級生は去っていった。


 ミチルの心は軽かった。
 何事もなかったかのように、学校の授業が始まった。

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