小説 sorehodo
それほどでもないよ。別に、この部屋から離れるのが寂しいわけじゃない。
ただ、立地はよかったし、スーパーも近かった。その意味で暮らしやすい場所だったとは思うよ。
でも、二人で暮らすには、少し狭かった。そして、少し古かった。日本堤の端っこで、小さな暮らしを始めた時、こんなに長く住むとは思っていなかった。もう4年になる。随分前の話だ。大学を卒業してすぐの時だった。僕らはまだ何も知らなかった。この世界が、確実に前進している事実を。
暗いニュースが入ってくる。連日の、世界の情勢の中で、僕らは別々の道を歩まなくてはならなくなった。
互いに夢を語った。そんな時もあった。
若いからできたのかもしれない。もちろん、今でも僕らは若い。
未来を作り直すには十分な時間がある。何もかも、終わったわけではない。
「新しい世界を見てみたいと思うの」
彼女は、そう言った。
だから、別れましょうと言った。僕はしばらく何も言わなかった。
その日、僕も別れを切り出すつもりだった。しかし、彼女に先を越されてしまった。彼女は、僕に別れを言う機会を永遠に奪った。まるで、先生パンチを食らったように、僕はそのまま何も言えなくなってしまった。
僕らは小さなこのマンションを出ていくことを決めた。僕が先に出ていって、彼女が後から出ることにした。
僕の荷物はほとんどない。衣服とパソコン程度だ。家電は、全て彼女に譲ることにした。新しい街でも、すぐに生活を始められるように。
「思い出が残っているから、捨てられないね」
彼女がそう言った。この部屋に置かれたものには、すべて僕らの思い出が残っている。其処此処にしみついた記憶が、僕をすぐにセンチメンタルへと誘う。
僕の引っ越しの日、わずかな荷物を車に詰め込んだ。近所のレンタカー屋で借りてきたのだ。久しぶりの車の運転だった。新しい世界へと進んでいく気がした。不器用な運転で、違う世界へと進んでいく。
「もう、行く?」
彼女の声が背中越しに聞こえた。僕は、ゆっくり振り返る。
過去を共に過ごした女性がそこに立っていた。薄暗い部屋の中で、ぼんやりとその姿を認めた。白いワンピースに、黄色いカーディガンを羽織っていた。今にも、部屋の影に取り込まれ、消えてしまいそうに見えた。
「ああ、行くよ」
僕は、そう言った。
「また、元気で」
彼女はそう言った。
お互い、か細い声で別れを伝えた。芯を欠いた、弱々しい声だった。
彼女を残して、家を出た。しばらくして、彼女もその家を出た。
新しい生活を始めた。
一人での生活は、案外楽だった。しかし、寂しかった。
誰かと、話をする機会が、極端に減った。職場に同僚は沢山いた。でも、友人はいない。ましてや、愛する人など。
カーテンを閉めて、薄暗い部屋の中でぼんやりしていた。過去をいくつも夢想しては、失った時代を求めている自分に気付いた。
三ヶ月が経ったころ、彼女から電話があった。
「久しぶり。どう、元気にやってる?」
「それほど」
「それほど?」
「それほど、悪くない生活をしている」
僕は嘘をついた。弱い自分を見せたくなかった。
「嘘、つきだね」
すぐにばれた。僕らはお互いに笑った。
「わかる?」
「声を聞けばね」
声を聞けば、わかる、か。僕らは随分お互いの事を知りすぎていたようだ。
「今度、久しぶりに東京に戻るの」
と彼女が言った。久しぶりに会いましょう。そう、言った。
「……わかった。会おう」
「会うの楽しみでしょ?」
彼女は電話口にそう言った。見えないが、口角をあげて、細い目で笑っているのだろう。彼女の、癖だ。
「……それほど、でもないさ」
僕はそう言った。彼女は「そう」とだけ言って電話を切った。
次に会うとき、僕は何を伝えれば良いのだろう。考えても答えはでなかった。それほど、考える必要はないのかもしれない。
自分が伝えるべきことを。今の自分を飾らない自分を。
それほど、強がる必要はないのかもしれない。
「あなたは考えすぎなのよ」
以前、彼女にそう言われた。君の言う通りだったな。何もかも。
僕は窓のカーテン開けた。光が、部屋に注いだ。
また、彼女に会える。過去は戻らないし、確たる未来もない。
でも、不安はあるかと聞かれたら、僕はきっとこう答える、
それほど、でもないさ、と。
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