他人と何を「共有」するのか

 世界にどれほどの人がいるのだろう。そう考える。
 コロナウイルスの影響が中国や、その近隣国のみならず今や世界中に影響を与えている。2003年の時のSARSの騒動の時よりも、世界は確実に「狭く」なった。国際化が叫ばれ、ネット網は拡大し、文化も各地へと浸透し、その中で世界と人々がつながりも多様になってきた。2003年というと、僕はまだ中学3年生で、まだ何も知らない子どもだった。もちろん、今でも何も知らないという意味においては、それは同じなのではあるけれども。当時はSNSもなくて、携帯電話でのネットサービスがやっと軌道に乗ってきた、といった時代である。パソコンを持っている家庭もそれほど多くはなかった。今でこそ「パソコンは一人一台」といった雰囲気が醸成されつつあるけれども、当時はまだまだそんな状況はなかったように思う。
 あらから17年もたつのか。そう思うと不思議な気持ちである。あの時から世界は確実に狭くなった。狭くなって、感情は混線し始めて、ずいぶん色々な誹謗中傷が闊歩する時代となったような気がする。自分らしく生きることが声高に叫ばれて、その実古い既成概念にからめとられて、自分らしさを獲得する前に、かえって自分らしさを喪失してしまっているような気がしている。
 なんでも共有しようとする傾向がますます増えてきた。自分の生活を露見させて「いいね」をもらう。承認欲求を互いに満たしながら、ゆるやかなコミュニティで、小さな喜びを静かに共有し合う。根っこを張る薄いコミュニティの中で、人々は自分の持つ価値観を磁場の上で共有することで安心し、糧にする。
 人の多様な生き方は、人々の生活だけでなくウイルスまで共有する。交流が盛んになって、世界は扁平になって、自由を担保に、あらゆる場所へと移動する。思想も、病気も移ろうもの。それが自然だとするならば、人はある程度その自然に対しては向かわなければならない。
 武漢は閉鎖され、日本でも様々な措置が講じられている。あらゆる思想は自由だし、あらゆる決定にもそれなりの理由があるだろう。自粛を求められる世界で、自室にこもりながら色々な人が「閉じた世界」で思考を巡らしているに違いない。世界にはあらゆる「思想」があふれていて、そのどれもがその人の考え方だ。それらが「人」の手を離れた時、それらは「デマ」として個人の思想から脱却し、それらの「影」だけがゆっくりと一人で歩いていく。
 病むのは体ばかりか? 過度に共有された言説もまた、人の心を汚染するものなのだ。世界はある意味では狭隘の途の果てに来たのかもしれない。しかし、それは間違いなく利便性の追求の果てに来たゆえの逆説である。
 僕らは多くの物を共有してきた。時代を、病を、そして、感情を。共有された感情に振り回されてはいけない。過度に膨張した感情は、非常に強い遠心力を持っている。徒にそれに触れれば立ちどころに自分自身も、その力によって彼方へと吹きとばされてしまう。
 わずかな時間、一人を享受したい。そこで、あらためて自分と向かい合いたい。世界の混沌は自分の鏡だ。混沌を覗き込んだ時に、そこに真実たる自分を見上げることができる。その顔は、笑顔か、泣き顔か。せめて、ひょっとこのような顔でないことを祈る。

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