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あのね

 彼女はずいぶん深く頭を下げた。
 何を祈っているのだろう。僕は頭を垂れた彼女の姿をじっと見つめていた。
 ふっと顔を上げ、僕の方を見た。泣きそうな、笑いそうな不思議な顔をしていた。感情の上で左右対称の表情だ。
 ただ、その性善とした感情の在り方がかえって、僕を不安にさせた。
 彼女はいつもそうだった。
 いつでも中庸で、まん中にいた。右にも左にも、どこにも傾くことはなかった(無論、観念的な意味でだ)。
 好きも、嫌いも、彼女にはなかった。
 感情の上で、共有できる部分が少なかった。しかし、それでも僕は彼女をを好いていた。
「あの女は、綺麗だが、感情がないよね」
 周囲の男性はすべてそう言った。みんな彼女を知らないのだ。彼女は感情がないのではない。世界の中心にいるのだ。誰にも、彼女を解せない。おそらく、僕以外には。
 広く、遠くを見渡している。
 遠くばかりを見ていて、足下を見ていない。
 今を生きずに、未来を生きている。それが彼女なのだ。

「あのね」
 人気のない林道で彼女はそう言った。
「なに?」
 僕はそう言った。しかし、彼女はその先の言葉を持っていないだろう。僕はそう思っていた。彼女はいつもそうだ。
 少ない言葉ばかりを残して、後は何もない。それが彼女とのいつものやり取りだった。
 ただし、その日の彼女はよく喋った。
 随分長い時間僕らは話をしていた。そのまま林道を抜けて、浜辺へと抜けた。
 海を見ると、彼女は何も言わなくなった。
 部屋の電気が、停電で一気に消えてしまったかのように。

「あのね」
 彼女はそう言った。その後、小さな声で何かを喋ったが、風の音にかき消されてよく聞こえなかった。
 その後、僕らは家路についた。東京駅で、僕らは別れた。
 僕はずっと手を振っていた。

 
 それからしばらくして、彼女は亡くなった。
 お通夜の間、僕は誰とも一言も喋らなかった。

 「あのね」
 僕はその言葉を繰り返した。彼女は最後になんと言ったのだろう。曖昧に頷いたことを後悔していた。
 生きていること、死んでいること。
 彼女は、きっとまたその中庸にいる。彼女が僕の中で生きている限り、この世のどこでもない場所にいる。
 
 あのね。

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