石井洋二郎「フランス的思考」

時たまの読書記録。石井洋二郎「フランス的思考」中公新書(2010年)より。

2020年からフランスに住んでいます。
幼少期からの食への関心と、母国語以外で専門性を身に付ける意欲とが相まって、フランスで料理人をしています。
母国でない環境は、何事も当たり前でないことを痛感させます。とりわけ職場では、目的のために協力しなければならない点で、違いを言い訳にしても誰にも理解してもらえません。相手を知ることは、自らの負担を減らす一助になるかもしれないと考えます。

「ゲーテとの対話」にはこのような一文がありました。

「フランス人は」とゲーテはつづけた、「悟性と精神は持ちあわせているが、根本的なものがないし、敬虔の念もない。その場その場で役立つもの、自分の党派に都合のいいものが、正しいものなのだ。だから、彼らがわれわれをほめるのも、われわれの価値を認めるからでは毛頭なくて、われわれの意見がその党派を強化できる場合に限られているのだ。」

エッカーマン; 山下 肇. ゲーテとの対話 上 (岩波文庫) (p.155). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

声の大きい同僚はいかにその自信を得ているのかを辿り、こうした自分の意見を強化するものに価値を置いているのかもしれないと考えると、かれらの行動原理に一本の筋が通る気がします。

本書では、「フランス的思考」は確固たる実体として存在しないとしながら、それについての思考を目指すことは日本的思考を問い直す機会になるとします。そこで先ほどの行動原理が、理に合ったものをすくいあげることで正確な判断を得ようとする合理主義として言い表せ、普遍主義と併せて「フランス的思考」を特徴づけるとします。しかし本書の特徴は、これらの主義が反対の概念と表裏一体をなしながら大きな流れを形作ってきたとし、「フランス的思考」の本質をアンチテーゼの観点から問うものです。

アンチテーゼから問うことで、合理主義も普遍主義もまっすぐ純粋お花畑的な概念として生き残ってきたのではなく、その前提を疑う行為があって時に強化され、時に人を陥れてきたのだと理解できます。アンチテーゼ側が歴史的な結末をもって異端とされるのは結果論ながら、ひとたび耳を傾けてみると、言語化されていなかった自らの感覚が明るみ出るようで、新鮮な感覚を覚えます。

同僚を理解するための読書は、気づけば自分を省みるきっかけになっています。冷笑する訳ではない、事を重くするでもない、むしろ前向きに、楽になる方向に意識を働かせようとする先人の考えと著者の説明に、広く深い世界を見せられます。

以下、各章の個人的な要約など。

第1章 倒錯の倫理学…マルキ・ド・サド
サドの思考は絶対的相対主義であり、すべてを相対化する。自分の快楽追求を最優先とし、道徳や普遍的モラルも相対化して悪の原理とする。自然の秩序は不平等の肯定と強者と弱者の衝突により保たれ、サド哲学は自己の自由を極限まで拡大する。他者との断絶と社会的矯正の排斥により孤独と孤立に至り、快楽を優先するため共同体の安定は不可能となる。サディズムは価値体系の転倒を示し、不平等に対する反合理主義的主張は、極限まで押し進めた合理主義的思考の産物と言える。

・自分の精神状態が良くないときほど、これをして何が悪い、という意気地な自分が顔を出すことがあります。考え方の変化によってではなく、心理の浮き沈みによって起こるところに、油断なりません。サドの殺人を正当化する論理も突拍子もない考えから生まれているのではなく、相対主義により合理的に自己利益を拡大した延長にあると言います。
アダムスミスの『道徳感情論』によれば、人間は「賢明さ」と「弱さ」の両方をもつものでした。自己の利益を優先する弱さは社会の原動力になる一方で、賢明さという正義感によって制御されなければならないとしています。
・戦争が起きているからには、平和が人類の普遍的な願いではないのと同じように、自由・平等・博愛も自己矛盾を抱えた、普遍性の外観をまとった理念であるという指摘には現実を見せつけられるような気がします。それでも普遍は例外の侵食を受けつつ不断に変容するものだという一つの解決策には希望が見えます。

第2章 情念の政治学…シャルル・フーリエ
フーリエの思想は「絶対的懐疑」と「絶対的隔離」に基づき、人類を文明社会の初期段階に位置づけ、情念を通じて社会の機能を分析する。彼は情念を目的ごとに分類し、集団形成や普遍的統一のメカニズムを探求する。彼の分類には「移り気情念」、「計算混じりの密謀情念」、「盲目的激情としての複合情念」があり、これらが集団間の差異や活動を促進する。「情念引力」は、人間集団のエネルギー生産と維持に焦点を当て、愛の力を重視する。フーリエは理想協同体「ファランジュ」を通して普遍的統一を追求し、情念引力をその使命とする。彼のユートピア志向は現実認識を欠くものの、細部へのこだわりと論理の奇矯さに思考の熱気がある。

第3章 錯乱の詩学…アルチュール・ランボー
思考は日記や書簡に営まれることもある。
ランボーは、デカルトの言葉の、主語と述語の一義的かつ安定的な関係に意義を申し立てる。「人が私において考える」のであって、考えるのは私でない。使命を負った詩人は、客観的な操作としての感覚の錯乱を通して新たな言語を獲得し、個別の言語を超えた普遍性に向かって突き抜けた詩=生を見出す。ランボーが提示するのは、デカルト的合理主義の延長にある均質な自己同一性を前提とする主体ではなく、自我の根底に他者性を植え付け培養する複合的な「私」である。

・Netflixのchef's tableシリーズで一風変わった料理やその構成も、ランボーの「感覚の錯乱」によるものだと言い表せるのかもしれません。さまざまな料理は「恒常的に、全般的に、冷静に統御された形」で、忘我、苦境、脱俗といった境地から生み出されるかもしれません。
・ランボーによるエゴイストの定義について、一般的な捉えられ方としての利己主義者と区別し、「私」という主体の完全性を信じて疑わない人々、とするのは、似ているもののより適当に見えます。職場の問題点の一つとして、エゴイストという言葉が方々から聞かれます。同僚が自己の利益のために身勝手な行動を取っているというより、自分の独立性を維持するためにそうしているのだと思えば、あれこれ口を挟むことへの解釈の一つとしてより理解できます。

第4章 革命の美学…アンドレ・ブルトン
『シュルレアリスム宣言』でアンドレ・ブルトンは想像力の自由を全面的に擁護し、シュルレアリズムの核心と位置づける。彼は精神の自由と超現実への思考投射を強調し、合理主義の限界を指摘する。ブルトンによれば、深い問題は異なる思考形式でのみ扱え、理性を適切に使い想像力を活性化することが重要だ。シュルレアリスムは現実の拡大と深化を想像力を通じて目指し、自動記述(思考の書き取り行為)で新たな思考様態を提唱する。この運動はロマン主義と異なり、主体を相対化することで想像力の自由を獲得することを目的とする。純粋な自動記述はシュルレアリスムの核心で、このプロセスでは「私」が消滅することはないが、純粋な容器として言葉の規範からの解放を目指す。至高点に達すると対立項が消滅し、眩暈の感覚に包まれることが理想とされる。シュルレアリスムは対象の輪郭を抹消し、表現と現実の境界を曖昧にすることを目指す。

・シュルレアリスムと言えば、サルバドール・ダリが思い浮かびます。2006年、上野の森美術館で行われたダリの生誕100年記念展は、当時中学生の私に大きな印象を残しました。その要因はポスターなど、ダリの奇人風な宣伝に依ったのかもしれません。しかし同時に、ぐにゃぐにゃの時計、砂漠に並ぶ脈絡のないモチーフなど、どんな無茶苦茶も説明なしに存在する不自然さと、それに対して疑いを持たない自分という、夢の中にいるような不思議な感覚が印象的でした。自らに何かしら思い当たる節があるように感じさせるは作品の力でしょうか。長いこと足を止めていた私は、現実と想像が入り混じる「眩暈」をしていたのかもしれません。
・ロマン主義的でいう「才能」や「独創性」という言葉で表現される主体よりも、不在の主体の思考を受け入れる容器として「私」を捉える方がしっくりきます。自分という存在に確固たる自信がないからでしょうか。最近、「〇年の職業経験の証明」なるものを求めるのを見て悩みました。本当の意味で自分がどこで何をしたのかを証明するには、雇用契約書でも給与明細でもなく、周りの人に問い合わせてもらって、その関係性から判断してもらうのが一番確かなことだと思った次第です。

第5章 欲望の経済学…ジョルジュ・バタイユ
エロティシズムは生の極限を称える行為で、本質的に死と密接に関連している。生と死は切り離せない連続的な領野であり、生の極限を称えることは死への接近を意味する。この過程では、死は恐怖と渇望の対象として存在し、エロティシズムは自己の存在消滅や自己放棄への欲望として捉えられる。人は自己と他者の差異の切断と深淵への魅惑により、生と死の連続性へのノスタルジーに動かされる。エロティシズムにより、主体の消失自体を志向する新たな欲望の構造が形成される。この自己放棄や自己喪失を通じて、生と死の領野における人間の根源的な探求が可能となる。

・何もかもがどうでもよくなると、姿を消したくなるような感覚に陥ることがあります。その志向を、なれの果てではなく、ノスタルジーと呼ぶのならば見方が一転します。"jusqu'à la mort"でなく"jusque dans la mort"であることで、生の先に死があるのではなく、底なし沼のような窪みがあることが想像つきます。生と死の地続きの関係、エロティシズムへの展開に思わず引き込まれます。

第6章 快楽の教育学…ロラン・バルト
ロラン・バルトのコレージュ・ド・フランスでの講義は、個別性を保ちながらの共生、すなわち「ともに生きること」を主題としている。彼は、集団的規範からの自由で独立した生活様式(イディオリトミー)を重視した。彼の講義は体系化を避けることでイデオロギー性から逃れることを目指していた。根底にあるのは、方法(ある目的に向かう手順)と教養(知識や体験の断片を通じて可能性を探ること)の対立する概念である。非-方法の側に立つことで、権力とは無縁であるべきだとされる。また、バルトは言語の範列関係が立場を強要する権力として作用するとし、中性の言語を通じてイデオロギーや二元論的構造から脱却することを提唱している。彼の講義は、固定された目的やイデオロギーから自由であり、個々の独立性と共同体内の多様性の共存を促すものであった。

・フランス料理は体系化されていると言います。それが私が留学先にフランスを選んだ理由の一つであり、フランスの料理学校で強調されたことでした。しかし見方によっては、100年前のオーギュスト・エスコフィエによる体系化の恩恵(イデオロギー)を享受しているに過ぎないのかもしれません。その著"Le guide Culinaire"はソースや肉、魚などの見出しに、膨大な種類のレシピが書き留められています。その網羅性ゆえに、どんな料理も自分たちの文脈に置き換えられる一方で、目新しさが生まれにくい諸刃の刃です。現実に見られる運動は、一方で体系をアップデートすることであり、もう一方で見出し自体を書き換えることのように見えます。
・権力と教養の関連は、宇沢弘文氏が大学が知識を求める場であるとして、いかに権力から自由を守るかを説いたことを思い出します。目的のための手順としての「方法」への批判的見方によって、大学のシラバス的なあり方が問われるように思います。

最後に、以下が私にとって本書の一番の慧眼です。

ところが人はしばしば、みずからの属する社会なり文化なりの特殊個別性でしかないものを普遍性と錯覚し、これを(善意であれ悪意であれ)他者に押しつけたがる。

石井洋二郎. フランス的思考 野生の思考者たちの系譜 (中公新書) (p.187). 中央公論新社. Kindle 版.

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