石井洋二郎「フランス的思考」
時たまの読書記録。石井洋二郎「フランス的思考」中公新書(2010年)より。
2020年からフランスに住んでいます。
幼少期からの食への関心と、母国語以外で専門性を身に付ける意欲とが相まって、フランスで料理人をしています。
母国でない環境は、何事も当たり前でないことを痛感させます。とりわけ職場では、目的のために協力しなければならない点で、違いを言い訳にしても誰にも理解してもらえません。相手を知ることは、自らの負担を減らす一助になるかもしれないと考えます。
「ゲーテとの対話」にはこのような一文がありました。
声の大きい同僚はいかにその自信を得ているのかを辿り、こうした自分の意見を強化するものに価値を置いているのかもしれないと考えると、かれらの行動原理に一本の筋が通る気がします。
本書では、「フランス的思考」は確固たる実体として存在しないとしながら、それについての思考を目指すことは日本的思考を問い直す機会になるとします。そこで先ほどの行動原理が、理に合ったものをすくいあげることで正確な判断を得ようとする合理主義として言い表せ、普遍主義と併せて「フランス的思考」を特徴づけるとします。しかし本書の特徴は、これらの主義が反対の概念と表裏一体をなしながら大きな流れを形作ってきたとし、「フランス的思考」の本質をアンチテーゼの観点から問うものです。
アンチテーゼから問うことで、合理主義も普遍主義もまっすぐ純粋お花畑的な概念として生き残ってきたのではなく、その前提を疑う行為があって時に強化され、時に人を陥れてきたのだと理解できます。アンチテーゼ側が歴史的な結末をもって異端とされるのは結果論ながら、ひとたび耳を傾けてみると、言語化されていなかった自らの感覚が明るみ出るようで、新鮮な感覚を覚えます。
同僚を理解するための読書は、気づけば自分を省みるきっかけになっています。冷笑する訳ではない、事を重くするでもない、むしろ前向きに、楽になる方向に意識を働かせようとする先人の考えと著者の説明に、広く深い世界を見せられます。
以下、各章の個人的な要約など。
・自分の精神状態が良くないときほど、これをして何が悪い、という意気地な自分が顔を出すことがあります。考え方の変化によってではなく、心理の浮き沈みによって起こるところに、油断なりません。サドの殺人を正当化する論理も突拍子もない考えから生まれているのではなく、相対主義により合理的に自己利益を拡大した延長にあると言います。
アダムスミスの『道徳感情論』によれば、人間は「賢明さ」と「弱さ」の両方をもつものでした。自己の利益を優先する弱さは社会の原動力になる一方で、賢明さという正義感によって制御されなければならないとしています。
・戦争が起きているからには、平和が人類の普遍的な願いではないのと同じように、自由・平等・博愛も自己矛盾を抱えた、普遍性の外観をまとった理念であるという指摘には現実を見せつけられるような気がします。それでも普遍は例外の侵食を受けつつ不断に変容するものだという一つの解決策には希望が見えます。
・Netflixのchef's tableシリーズで一風変わった料理やその構成も、ランボーの「感覚の錯乱」によるものだと言い表せるのかもしれません。さまざまな料理は「恒常的に、全般的に、冷静に統御された形」で、忘我、苦境、脱俗といった境地から生み出されるかもしれません。
・ランボーによるエゴイストの定義について、一般的な捉えられ方としての利己主義者と区別し、「私」という主体の完全性を信じて疑わない人々、とするのは、似ているもののより適当に見えます。職場の問題点の一つとして、エゴイストという言葉が方々から聞かれます。同僚が自己の利益のために身勝手な行動を取っているというより、自分の独立性を維持するためにそうしているのだと思えば、あれこれ口を挟むことへの解釈の一つとしてより理解できます。
・シュルレアリスムと言えば、サルバドール・ダリが思い浮かびます。2006年、上野の森美術館で行われたダリの生誕100年記念展は、当時中学生の私に大きな印象を残しました。その要因はポスターなど、ダリの奇人風な宣伝に依ったのかもしれません。しかし同時に、ぐにゃぐにゃの時計、砂漠に並ぶ脈絡のないモチーフなど、どんな無茶苦茶も説明なしに存在する不自然さと、それに対して疑いを持たない自分という、夢の中にいるような不思議な感覚が印象的でした。自らに何かしら思い当たる節があるように感じさせるは作品の力でしょうか。長いこと足を止めていた私は、現実と想像が入り混じる「眩暈」をしていたのかもしれません。
・ロマン主義的でいう「才能」や「独創性」という言葉で表現される主体よりも、不在の主体の思考を受け入れる容器として「私」を捉える方がしっくりきます。自分という存在に確固たる自信がないからでしょうか。最近、「〇年の職業経験の証明」なるものを求めるのを見て悩みました。本当の意味で自分がどこで何をしたのかを証明するには、雇用契約書でも給与明細でもなく、周りの人に問い合わせてもらって、その関係性から判断してもらうのが一番確かなことだと思った次第です。
・何もかもがどうでもよくなると、姿を消したくなるような感覚に陥ることがあります。その志向を、なれの果てではなく、ノスタルジーと呼ぶのならば見方が一転します。"jusqu'à la mort"でなく"jusque dans la mort"であることで、生の先に死があるのではなく、底なし沼のような窪みがあることが想像つきます。生と死の地続きの関係、エロティシズムへの展開に思わず引き込まれます。
・フランス料理は体系化されていると言います。それが私が留学先にフランスを選んだ理由の一つであり、フランスの料理学校で強調されたことでした。しかし見方によっては、100年前のオーギュスト・エスコフィエによる体系化の恩恵(イデオロギー)を享受しているに過ぎないのかもしれません。その著"Le guide Culinaire"はソースや肉、魚などの見出しに、膨大な種類のレシピが書き留められています。その網羅性ゆえに、どんな料理も自分たちの文脈に置き換えられる一方で、目新しさが生まれにくい諸刃の刃です。現実に見られる運動は、一方で体系をアップデートすることであり、もう一方で見出し自体を書き換えることのように見えます。
・権力と教養の関連は、宇沢弘文氏が大学が知識を求める場であるとして、いかに権力から自由を守るかを説いたことを思い出します。目的のための手順としての「方法」への批判的見方によって、大学のシラバス的なあり方が問われるように思います。
最後に、以下が私にとって本書の一番の慧眼です。
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