見出し画像

下手くそでも愛したい

 午前二時の水は冷たい。あるはずのないたてがみが、ピンと立つような気がする。
 しーっと、歯の隙間で空気を振るわせながらペーパータオルを取ると、雪崩れるようについてきた数枚が、汚れた洗面の中と外へ散らばった。あぁーと思った時、タイミング悪く人が入ってきて、遠くにうっすらと聞こえていたBGMが、一瞬大きくなる。
 短いエプロンが、痩せた腰に巻かれている。黒の帽子に小さな顔が埋まっていて表情は分からなかったが、折り目のしっかりついたシャツの中に、皮膚の弛んだ喉が見えた。
「失礼いたします。個室の清掃に入らせていただきます」
 声は掠れていても、ハキハキとして発声に迷いがない。深夜でも、老人でも、働く人はこんな風に声を出すのだと驚く自分がいた。
 何歳なんやろ。散らかした紙はそのまま、すれ違いざまに横顔を確認する。七十は越えているように見えた。しわくちゃな頬には濃いシミがふたつあり、薄くなった眉毛に、こげ茶のアイブロウが強く引かれている。
 元いた席に戻り、アルバイト募集のポスターを眺めながら、おばあさんが出てくるのを待った。マクドナルドのパートに年齢制限がないことは知っていたけれど、今まで意識したことはなかった。今日に限ってスタッフの年齢が気になるのは、昼間電話をかけてきた母に、金の無心をされたからに違いない。無職の母は先月、四十五歳になったばかりだ。
 二階の店内には、テーブルに突っ伏して眠っているおじさんの他に、三人の大学生っぽい女の子たちがいて、時折どっと沸く会話の内容が、離れて座っている私にもはっきり聞こえてくる。
「うちらだってさあ、オレンジデイズみたいな学生生活送れるって思ってたじゃーん?!」
「ユミ、それずっと言ってない?ドラマ古いのよ」
「いやいや、あの時代のドラマが一番面白いからね?!」
「大学に妻夫木なんかいないじゃん」
「ちょっと待って、その前にうちらが柴咲コウじゃねえのよ」
 テカリの強い赤い椅子で立膝をしながら、ポテトを口に入れ爆笑している。レイヤーの入ったユミの茶髪はどこか、平成のギャルを彷彿とさせた。
 髪、染めよかな。
 インスタで髪色を検索し始めると、おばあさんのことはどうでもよくなった。さっきは彼女の姿を撮影するつもりだったが、もう今はカメラを起動させることさえ面倒くさい。実際撮ったところで、母に見せるかどうかも分からない。
 三時を十分ほど過ぎた頃、母が現れた。大学生たちはもういなくなっていて、眠っているおじさんが、一階から上がってきた男性スタッフに起こされている。
「えらい待った?堪忍な」
「別に。大丈夫」
 いつものことだ。約束は大抵二時だが、弟の陸は夜型な上に眠りが浅く、母が約束通りにやって来ることはほとんどない。陸が眠ってからやっと家を出ることを考えれば、三時はまだ早い方とも言えた。
「布団出よう思たら陸起きるし、困ったわ」
 母の眉間には、二本の濃い皺が刻まれている。本人も気にしているのか、「苦労してきた証拠や」というのが彼女の口癖だが、私にはそうは思えない。昔から、世の中の全てに文句のある人だ。文句を垂れ、自分の境遇を嘆き、何でも他人のせいにする。母ほど好き勝手に生きてきた女を、私は他に知らない。
「いくら借りれるやろ?」
 電話では、五万の話だった。その後のメッセージに、もう少し借りたいと書いてきた。テーブルの上に一万円札を十枚並べると、分かりやすく表情が緩む。長い爪をこちらの指に絡ませながら、「ほんっまに、いつもありがとうなあ」と猫撫で声を出した。
「こうちゃん、お母さん助かるわあ」
 大学生三人が、帰った後でよかったと思う。ただでさえ大きな母の声だ。私の名前を耳にして、彼女たちがこちらに注目しないとも限らない。
「ちゃんと返してな。この間のもまだ返してもらってないねんから」
「えー、そやったかいな。ごめんごめん」
 十五個離れた弟の陸とは、父親が違う。十八で家を出た時、弟はまだ三歳だった。甘やかすからか、小学生になった今でもひとりでは眠れないようで、母は私と会う時、こうやって真夜中に家を出てくる。
「なんもこんな時間やなくても、お昼にうち来てもよかったんやで」
「だって昼間は、片岡さんがいるやろ」
「そうやけど、あかんかあ?」
 片岡は、母が最近付き合いはじめた男だ。まだ三十代のはずだがろくに働きもせず、昼間は、というより四六時中、ずっと母の家に入り浸っている。できるだけ顔を合わせたくないのは娘として当然だと思うが、彼女にはそれがわからないらしい。

 母の男好きに、随分と振り回されてきた。夜、飲みに行っては誰かと知り合い、平気でうちへと連れて帰ってくる。しょっちゅう知らない男の出入りする家は落ち着かず、小さい頃は外で遊んでばかりいた。散々遊んで帰った後、団地の狭い部屋では決まって、スパイス系のお香が焚かれていたのを覚えている。匂い消しのつもりだったのだろうが、まだ臭覚が過敏な幼い私にとっては逆効果でしかなく、真冬でも窓を開けようとして、よく母に怒られた。
 違う棟に住む幼馴染の部屋で初体験を済ませた日も、帰るとお香が焚かれていた。居間には母の新しい恋人がいて、散らかったテーブルには出前の寿司桶が、ふたつ並んでいた。
「こうちゃんえらい早かったやん。おかえり」
 母は崩れたメイクを直さないまま、ケトルのお湯をお吸い物のもとに注いでいる。
「うん。ただいま」
「翔太郎くん元気やったか?」
「うん、まあ普通」
「こないだのみかんのお礼言うてくれた?」
「言うてない。おばちゃん仕事でおらんかったし」
 十四歳の私は、新しい恋人の舌に赤い鮪がのるのを眺めながら、母の質問に答えていた。自分の部屋のノブに手をかけつつも、色の悪い唇の中で、さまざまな赤が蠢く様子に見入った。インド香の強い香りが、お椀から上がる湯気に温められ、眉間の辺りがだんだん重くなってくる。男の太い首にかかる襟足が茶色かった。鼻が高く花柄のシャツに違和感がない。純粋に、派手な顔立ちを羨ましく思った。
 あの日、母は陸を妊娠したのだと思う。彫りの深さと、首元の大きな黒子が遺伝したせいか、弟を見るとあの午後を思い出す。
「こうちゃんお寿司はー?」
 部屋にこもった私に、母が声をかけてきた。
「いい!」
「なんでよーせっかく頼んでくれはったのに」
 ぶつぶつ言う母の声を遮るために、有線のヘッドホンを手に取る。プラグをパソコンのジャックに挿し、YouTubeを開いた。お気に入りのバンドを検索し、ミュージックビデオを再生すると、右の音にプツプツとノイズが混じる。
 翔太郎がくれたイヤホンではなく、その日はどうしても、父が愛用していた古いヘッドホンを使いたかった。父の命日だったからだ。
 珍しい寿司の出前は、父の七回忌のためだったのか。それとも恋人との一ヶ月記念日のお祝いだったのか。どっちだって構わないと思いながら、結局確認することなく、ここまできてしまった。
 母は、自分と幼い娘を残して死んだ父を、恨んでいた。身寄りのなかった父の生命保険があったから、働かず暮らせていることも忘れ、娘の前でも平気で恨み辛みを並べ立てる。年上だった父へ当て付けるように、若い恋人とばかり付き合った。
 私は八歳だった。若かった父が患った胃癌の進行は早く、記憶にある父の顔はどれも、痩せこけていて覇気のないものばかりだ。ただ、私を脇に座らせながら大好きな競馬中継を観ている時だけは、病院のベッドの上でも、楽しそうだった気がする。
 セーラー服の下で腹が鳴るのを無視し、目をつぶると、一時間前の翔太郎との行為を反芻する。腋の下や、太腿の内側、小さい胸とあばらの境目。同じ団地で育った翔太郎が、まさかそんな細かい部分にまで目を留め、自分の舌を押し当ててくるとは想像していなかった。絵の具で塗ったような赤い唇が、父にも触れられたことがない身体の裏側を往復し、全身の水分を吸い取っていく。
 どこにも触れることなく達することを覚えたのは、まさにこの時だ。それまで、自慰行為はほとんどしたことがなかった。というより、心身ともに満足できたことがなかった。スマホやパソコンの画面でどんなにエッチな漫画や動画を見ても、途中で必ず母の顔がちらつき始める。母と若い男とのセックスが鮮明な映像となって瞼の裏にこびりつくと、もう逃れられない。見たことのないはずの光景に、まだ成長途中の自分の身体がリンクした。この手が弄る部分を、母も同じように男に弄られている。自分の息遣いが母の息と重なり、あの匂いが鼻腔に蘇ってくる。銀歯が目立つ、母の喉の奥の匂いは、咳き込みたくなるシナモンの煙だ。
 嫌悪感が水のように勢いをつけ、ゴゴッと奇妙な音を立てて脳みそに流れ込んできた途端、妄想の中の母は激しく絶頂に達する。私はというと、乾いた指を中心から引き抜き、引き攣った身体を解放しながら途方に暮れる。もうこれを、何度となく繰り返していた。

 初体験の夜を機に、彼氏と寝た後の一定期間、記憶を頼りに自分を慰めるのが日課となった。セックスのスパンが短くなればなるほど、頻度は上がった。
 所謂「裏アカ女子」になったのは、その数年後だ。
 男に振られ、生まれ育った大阪を出たいと言いだした母親と、一歳になったばかりの弟と三人で東京に越した後、十八で家を出た。お昼はカフェ、夜はカラオケで働き生計を立てた。母に頼まれると実家に帰り、陸の面倒を見た。
 その頃、働く以外の時間のほとんどをSNSに費やしていた私は、ツイッターに下着姿や裸を載せる女がいることを知り、その検索に夢中になる。ひっかけた女のハメ撮りを載せている男も多かったが、もっぱら興味を引いたのは、自分のオナニー姿を撮影している裏アカ女子だ。顔だけを隠した独特のアングルと、表情の見えない声は、何故かあまり強くない私の性欲を刺激し、全身の毛穴を開かせた。
 閲覧専用に作ったアカウントで、身体のどこにも触れずにイく習慣をツイートすると、どこから湧いて出てきたのか、「見たい」という男たちのリプライが連なった。一風変わった自分のやり方にも需要があることを知り、見よう見まねで、動画を撮り始める。
 アダルト専門サイトで会員向けに動画を販売すると、思った以上の収入になった。カラオケのバイトを辞め、夜は動画撮影に専念した。昼夜が逆転し、カフェのシフトにもほとんど入れなくなってから、ネット以外で人と関わることはゼロに近い。
 デジタル配信が急成長し、生配信で投げ銭を得られるようになったのは大きい。カメラの前で裸になり、仮面をつけ、両腕を横に垂らしたまま腰を動かす。それだけで喘ぎ出す私を、世界中の人間が見ていた。

 私鉄に乗って二駅。馴染みのない街で、Googleマップを頼りに歩き出す。駅から徒歩五分、桜並木の続く緑道を抜け、住宅地の方へ曲がると、小さな薬局の隣、大きなマンションの一階に柴田整形外科はあった。自動ドアが開くと、想像よりも広い空間にたくさんの人がおり、看護師やスタッフが忙しそうに動き回っている。淡い緑色の長椅子に老人たちが寄り添い、字幕の表示される大きなテレビを眺めていた。
 スマホやパソコンを見る時間が長いせいか、ここのところ肩こりが酷く、首を曲げるのも辛い。そのことを呟くと、女性フォロワーのひとりが整形外科での治療を勧めてくれた。早速近場で検索し、レビュー評価の高さと、清潔そうな院内写真を見て、ここ柴田整形外科を選んだのだ。
 受付に保険証を出すと、問診票を記入するように言われ、杖をついたおじいさんが立ち上がったばかりの椅子に腰を下ろす。おじいさんはよろよろと前に進み、恐る恐る膝を曲げながら、レントゲン室横のベンチに収まった。記入中も、老人たちが次々に名前を呼ばれ、診察室やリハビリ室へと吸い込まれていく。
 その中に、不自然にメイクの濃い中年女性を見つけ、なんとなく目で追いかけた。リハビリ室へ向かう女性の大きな尻が、白いデニムの中で交互に収縮する。その度にパンツラインがくっきりと浮かび上がった。
 問診表を書き終え受付へ提出すると、さっきは死角になっていたリハビリ室の中がよく見えた。ボブカットにフレアトップスを着たおばさんが、施術台の上に腰掛け、片腕を伸ばしている。頬が赤く上気しているのが、ここまで伝わってくる。
「では、順番にお名前をお呼びしますので、お待ちください」
 受付の女性に言われ、私はとっさに奥を指差した。
「あれって、誰でも受けられるんですか?」
「リハビリ治療ですか?もちろんですよ。もし希望されるようでしたら、こちらに丸をお願いします」
 問診表の、一番下の質問事項に記入を促される。用紙には、「リハビリテーションを希望しますか?」とあった。先ほど丸した「いいえ」の上から、ボールペンで強く斜線を引き、今度は「はい」に大きく丸をつける。
 もう一度奥へ目を向けると、おばさんは反対の腕を肩と同じ高さに持ち上げていた。さっきは後ろ姿しか見えなかったが、二十代後半くらいの爽やかな青年が、彼女の肘を支えるように両手を添えている。青色の制服がよく似合う、色白のイケメンだった。彼が背後から笑顔で話しかけると、正面を向くおばさんの耳が、真っ赤に染まった。
 レントゲンを撮った後、エコーを使った筋膜を剥がす治療を終え、今度はリハビリ室の前で名前を呼ばれるのを待った。施術の終わったらしいおばさんが出てくると、タブレットを手に持ったイケメン療法士と共に立ち止まり、次の予約を取り付けている。
「二週間後だと、水曜日の午後、今日と同じ四時頃なんかどうですか?」
「はい、二十五日ですよね。はいはい、大丈夫です」
「では、二十五日の四時でお待ちしてますね」
「お願いします」
「あ、杉村さん、ちょっと寒くなってきましたから、身体冷やさないように。お願いしますね」
 こちらからイケメンの顔は見えなかったが、ほどよく低く通る声が響く。明らかに照れた様子のおばさんがお辞儀をしながら立ち去ろうとし、後ろに立っていた老人とぶつかりそうになった。
「危ない危ない、杉村さん前見てー」
 ふたりを支えるように、イケメンがニコニコ笑いながら手を差し出す。横顔に八重歯が見え、細くなった目尻が下がる。めったに一目惚れなどすることのない自分でも、ドキッとする笑顔だった。前へ伸ばした腕が、よく張ったいかり肩のラインから肩甲骨を浮かび上がらせ、細くも男らしい体格を主張する。胸元につけたバッジには、「野瀬斗真」とあった。
「糸田幸さんー」
 その時タイミング悪く名前を呼ばれ、仕方なく立ち上がった。私の担当は若い女性だったが、杉村と呼ばれたおばさんのようにドキドキするわけもなく、淡々と時間が過ぎていった。帰りに次回の予約日時を問われ、迷わず二十五日の午後四時を指定する。「三時半ならお取りできます」と言われ、そのようにした。
 二週間後も、その次も同じように通った。杉村は、予想以上に野瀬という理学療法士に夢中らしく、最近よく見かけるはずの私の存在を、気にする様子もない。腕や膝に触れられるたった一瞬の触れ合いに、野瀬から愛想よく放たれる小気味いい言葉に、ぽっちゃりと膨らんだ身体中の全神経を傾けているようだった。野瀬の言葉に応える時の、杉村の少女のような瞳と仕草は、老人だらけの院内では違和感でしかなく、素人もののアダルトビデオを見せられているような気持ちになる。
 
「あの男に惚れてんの?」
 なんと言って呼び止めるのか、決めていたわけではない。ただ予想通り並木道へ曲がってきた杉村に声をかけた時、あまりにも意地悪なチョイスに自分でも驚いた。
「へ?」
 心底びっくりしたのだと思う。杉村は足を止め、ぎゅっと持っていた鞄を自分の方へ引き寄せながら、ベンチに座っていた私をまじまじと見た。紺色のスラックスパンツに横皺ができている。無理して履いているらしいパンプスが痛々しく、甲に赤い靴擦れが見えた。
「野瀬って理学療法士」
 杉村は目を見開いたまま何も言わなかったが、はっと息を呑み身体を硬直させた。声が出なくて当然だ。
 慌てて立ち去ろうとする背中を追いかけ、施術を受けてきたばかりの肩を掴むと、ビクッと全身を震わす。
「こうやって触られて、毎回ドキドキしてるん?」
 恐怖で固まった顔は滑稽だった。目尻のアイラインが滲み、サーモンピンクに塗られた唇は乾燥している。顎に肉が弛み、ファンデーションの境目を強調させていた。年齢は母と同じくらいに見える。こうして他人と関わってみると、母が人より美人であることに気付かされた。
「ちょっ、やめてください!なんなんですか?!警察呼びますよ!」
 杉村は怯えながらも気丈だった。しかし、ここまできて負けるわけにいかない。
「結婚してるでしょ杉村さん。子どももいるんよね?」
 今日の施術中、途中でやってきた杉村と野瀬斗真の会話を聞き取るため、必死に耳を澄ませた。杉村の照れ臭がる声は小さかったが、野瀬の声はよく通るので内容を掴むのは容易だった。杉村が人妻で、小学生と中学生の子どもがいることは、さっき知ったばかりだ。
「なんでそんなこと・・」
「まだあそこ通いたいやろ?イケメンに会えなくなるの、嫌やんな?」
 無意識に、杉村の太い腰に手を回していた。身体を擦り付けるようにすると、カーディガン下のTシャツが捲れ上がり、冷たい夕方の風が肌に触る。熱くなった杉村との温度差に、腹の底がジンジンした。
「やめてっ!はなしてくださっい!」
 巻きついた私の腕を、必死で振り払おうとする指がめり込む。形の悪い小さな爪に、口紅と同じ色が塗られていた。
「友達になってくれたら、なんも言わへんよ。なんもしんから」
「ちょっとっ!!放してっ!!」
 力の込められた硬い肘がみぞおちにヒットし、砂利の散らばった道に背中から放り出される。通り過ぎていく高校生カップルが気味悪そうに私たちを見ていた。杉村は走って逃げようとしたが、あまりの痛さに動かなくなった私を振り返り、親切にも足を止めた。
「ああっ、もうなんなのっ!」
 苛立ちをぶつけるように駆け寄ってくると、私の腕を取り、自分の肩へとのせる。腰を持ち上げ、さっきと同じベンチへと座らせた。手慣れた手つきに感心しながら、私は杉村がとどまってくれたことにホッとする。
「あなた、いくつ?」
 仁王立ちした杉村は、息を切らしながら、吐き捨てるように質問した。元々、何か計画があって話しかけたわけじゃない。友達になれというのも、咄嗟に思いついた言葉だった。ちょっとからかってやりたかっただけだ。いい歳したおばさんが、誰もが惚れるような爽やかイケメンに現を抜かし、病院という衛生的な場所に通っていることが面白かった。
「二十三」
 正直に答える必要もないのに、実年齢を告げる。
「こんなおばさん脅して、なんのつもり?」
「はあ、ごめん、なさい…」
 謝ってしまうと、なんだか泣きたくなった。腹と背中の痛みが、虚しさに追い討ちをかける。
「もういいよ、行って」
 泣き顔を見られたくなくそう言うと、杉村は隣に腰を下ろし、下から私の顔を覗き込んでくる。
「ちょっと、泣いてるの?」
 強い力で腕を掴まれた。想像以上に距離が近く腰が引ける。
「もういいって!ほんまなんもせんから忘れて!もう行ってよ!」
 
 駅前のファミレスで向かい合った杉村の顔は疲れていた。ドリンクバーから持ってきた紅茶のひとつを、そっと杉村の前にスライドさせる。
「あなたも、野瀬くんが好きなの?」
 何を勘違いしたのか、早く帰れと促した私にそんなことを訊いてきた。仕方なく、誤解を解くためここへ誘った。
「一ヶ月前、なんとなくあんたのことが目に入って。あのイケメン好きなんが分かったから、なんか、意地悪したくなったっていうか」
「え、それだけ?」
「そう。それだけ」
「そう、それだけ…」
 困惑した表情にはいくらか安堵の色が見えた。何度も謝るうち、私に攻撃の意思がないとわかると、ゆっくりと頬の筋肉を緩ませる。
「息子がふたり。毎日馬鹿みたいに食べる小五と中二を必死に育ててる。夫は何も手伝ってくれないし、ほとんど夫婦の会話もない」
 突然自分語りを始める杉村の、あまりの無防備さに唖然とする。
「月に二回の、楽しみなの。かっこ悪いでしょ?」
 ふっと息を短く吐くと、ティーカップを手に取る。何もかも諦めているようで、そうではない。淡い期待を含んだ自分の仕草のみっともなさを、杉村はよく知っているようだった。
 沈もうとする陽が、油の浮いた杉村の顔に強く照りつける。紅茶の湯気が重なると眩しさが増した。新しい客がやってきて扉が開くと、ひんやりとした寒風が店内に侵入してくる。しかし客の数は、さほど多くない。
 私は立ち上がって、杉村の隣へと移動する。滑り込むようにぐっと身体を寄せ、鼻を白いカットソーの首元へ埋めた。甘さと酸っぱさが入り混じった体臭が香り、胸いっぱいに吸い込む。顔を上げそっと口づけると、幅の短い目が、縦に大きく見開かれた。杉村は拒否しなかった。私は、今にも剥けそうなピンク色の皮を歯で引きちぎり、少し血の滲む唇を何度も舐めた。舌をほんの少し差し入れ、歯と歯の間に捻り込む。徐々に開いていく空洞へと進むと、代わりに右手を置いている腿に力が入り、閉じていく。
 完全に閉じられてしまう前に、私はあそこに中指と薬指を這わせた。脂肪がついているので自分のとは多少違うものの、ある程度の位置は把握できる。ぐっと力を込めると、杉村は初めて「はあっ」と息を漏らした。舌の先端が、もうひとつの舌を捉えたので、ちらちろと細かく動かすと、指の滑りがよくなるような気がする。ナイロンの布越しに、水溜りに触れる感触があり、強く擦りあげた。
「いやっ」
 か細い声でそう言われると、自分のあそこから体液が溢れるのが分かった。はっきりと、興奮している。
「連絡して」
 テーブルの端にあったボールペンを掴み、伝票の裏に電話番号を書いた。千円札を一緒に置き、逃げるようにファミレスを出る。
 その日の動画撮影では、甲高い声がよく出た。手に残る生暖かい感触を思い出し、フォロワーから送られてきた卑猥な衣装を一枚ずつ剥いでいく。まだ痛む腰を持ち上げ絶頂に達すると、内腿から膝裏まで、つーっと透明な体液が流れた。動画のいいね数が増えることを期待し満足しながら編集に入るも、プライベート用のスマホが気になって仕方ない。帰宅してから五時間が経つのに、いまだ杉村からの連絡はなかった。

 六日が経った日の昼過ぎ、知らない番号からショートメッセージが届く。
 ーわたしは、どうしたらいいの?ー
 たったそれだけ。名前もなかったが、彼女だとピンときた。すぐに返信し、新宿の老舗喫茶店へ呼び出す。来てくれるかは分からなかったが、待つつもりだった。
 店の真ん中、大階段を降りてくる杉村が見えた時、私はこれまでのどんな彼氏との待ち合わせよりもドキドキしていたと思う。困ったように眉を下げこちらに向かってきた杉村が、野瀬に会う時と同じように、下手なメイクをしていることが嬉しかった。嫌われていないと分かり、やけに胸が高鳴る。
 立ち上がり、「来てくれたん?」と声をかける。杉村は頷くと、先にソファへ腰をおろした。
「あたし、あなたの名前も知らない」
 ぼそっと咎めるように呟くも、目線は私をしっかり捉えている。
「さち。幸せって書いて、さち」
「さち?」
「そう。でも母親だけは、こうって呼ぶ。死んだ父親がつけた名前が、気に食わないらしいんだよね」
 なんと言おうか迷っている杉村に、今度は私が訊いた。
「名前は?」
「ななえ。数字の七に恵み」
「ななえさん」
 私が代わりにウェイトレスを呼び、彼女のコーヒーとチョコレートケーキを頼んだ。端っこから丁寧にセロハンを剥がしながら、杉村は元看護師だと話した。私はというと、フリーターだと嘘をついた。
 その後はろくに話もせず、もくもくとケーキを頬張る彼女を見届けると、タクシーでホテルへ向かった。世の男たちがこういう場所へ女を誘う時、なんと言うのかはよく知らない。けれど思いの外、シンプルな言葉が出た。
「ななえさんとしたい」
 分かっていたくせに杉村は驚いた顔をしてみせた。一度目を伏せた後、上目遣いで私を見て、頷く。もうAVみたいだなんて思ったりはしなかった。手を取り、繋いだままタクシーを止め、乗り込みながら矢継ぎ早に「ホテルに行きたいんですけど」と、運転手に伝えた。
 きょろきょろと落ち着かない杉村を横目に、一番値段の高い部屋をパネルで選ぶと、あらかじめポケットに忍ばせていた一万円で支払いをしてエレベーターに乗った。部屋のドアを開けるなり後ろから抱きつくと、「はあっ」と、風船が割れるように息が漏れる。
 黒のシニヨンシャツのボタンを外し、手を差し込む。両手に余るほど豊かな胸を、汗ばんだ肌着の上からゆっくり揉み、皺の目立つ首に唇を当てた。それぞれ違う柔らかさが口先と手先の感覚を痺れさしていく。上下の洋服を剥いでしまうと、薄い黒レースのブラとショーツが脂肪に食い込み、それぞれの場所で流れを堰き止めている。
「そんなに見ないで…」
 耳まで赤くなった顔を両手で覆い、ベッドの端へ逃げようとする杉村の腕を取る。パーカーを脱いで、自分のシャツワンピのボタンへ誘導した。
 これまで、私が経験してきたセックスといえば、自分より硬い身体と陰部を持つ男に組み敷かれ、さまざまな部位を舐められ、繋がるということを名目に内臓の一部に性器を擦り付けられるという教科書的なものばかりだった。翔太郎を始め、男たちはみんな優しかったが、経験人数はさほど多くない。いつの間にか、己の性が食べていく手段そのものになっている。まさか自分から、こんなに貪欲に、誰かを求める日がくるとは思ってもみなかった。
 杉村は、野瀬とどうにかなりたい欲求のやり場に困っていた。蓄積した日々の鬱憤と、美しいもの、若いエネルギーへの執着心を抱えて、私の身体を貪った。乳首を吸う時、あそこを吸う時、じゅるじゅると必要以上に音を立て、私を水の底へと引っ張る。硬く尖った陰毛に触れ、下腹がひりひりと痛んだ。ぐちゃぐちゃと中をかき混ぜ、身体を裏返し、杉村と私は一体になった。
 杉村の、垂れた胸と腹の間に顔を埋める時、私はお腹の中の赤ん坊のように丸くなり、舌で乳房の重さを量った。重たい布のような皮膚が、目を覆い、鼻を覆った。普段は他人の身体に触れることなどない顔の神経が、脳みそへ、どばどばとミルクを注ぎ込んでいく。
 奥の一部に触れると、「あああっ」と連続した声が鼓膜を震わす。まるで楽器を奏でているようで、何度もその部分を擦った。爪を立てないように、でも力が弱すぎないように。男に抱かれるのとは違う多幸感と達成感が身体を支配する。杉村の何もかもが、自分のためにあるような、そんな気がする。

 月に一度、多ければニ度、杉村は私との時間を作って外へ出てきた。真ん中へ指を挿入した私を、目を瞑って抱きしめる時、彼女は野瀬に抱かれていたのかもしれない。それでもよかった。恋をする杉村の皮膚は瑞々しく、脂肪が液状化し、この世のものとは思えないほど気持ちがいい。私は不恰好な形をした陰毛に自分のを押し当て、杉村の耳元で声を出した。耳たぶを噛みながら、頭が真っ白になる瞬間を探す。
「ななえさんっ」
 名前を呼ぶと、杉村は「さちちゃん」と返してくれた。しばらく呼ばれることのなかった本当の名前が、杉村の優しく掠れた声に乗り、身体中の毛穴から浸透していく。もうろくに思い出せやしない父の顔や声が、一瞬走馬灯のように脳裏をよぎる。
 杉村と会うようになると、動画を撮らないプライベートな時間がだんだんと増え、いつもはこまめに返答していたリプに返すのが億劫になった。
ーみゆきちゃん最近忙しいのかな?ー
ー体調どうかな?動画楽しみにしてるよ♡ー
 こちらの顔も知らない男たちが、なんのひねりもない偽名で、私を呼ぶ。散々消費してきた女の体調を、ことさらに気遣う。
 私はなんとも不思議な世界にいる。さちである前に、「みゆき」や「こう」でいることを強いられる。私の人生は、父が死んだ時からほとんどが「こう」であり、その後「みゆき」になった。杉村に会うほんの数時間だけ、父の可愛がってくれた「さち」に戻ることを許される。
「さちちゃんは関西弁ね」
「うん、大阪出身やから」
「いつこっちに出てきたの?」
「高校入った時やったから、十六かな」
「一人暮らししてどのくらい?」
 私は、杉村のどうでもいい質問に答えるのが、好きだ。
 幼馴染の翔太郎は、学校から帰るや否やマシンガンのように放たれるおばちゃんの質問を嫌がってた。
「もうええって!はよゲームさせて」
 一丁前に面倒くさがり、コントローラのひとつを私に手渡しながら、居間と部屋を区切る襖を閉める。おばちゃんは、「誰が朝起こしてやってるおもてんの!」とぶつぶつ言いながら、私たちに牛乳とドーナツを準備してくれたっけ。
 そういうお節介な母親みたいに、杉村はこと細かく私に質問する。それが心地いい。大抵はセックスの終わった後、気怠い身体をシーツの上に投げ出しながら、一部と一部を、例えば足先とふくらはぎとを絡ませながら、たくさん話をした。ふたりきりの、大切な時間だ。
 ホテル代はいつも私が持った。家に呼んでもよかったのだが、嫌がる気がしてホテルにした。杉村は引け目を感じているのか、いつも手作りのおかず何品かと、お菓子を手土産に持たせる。そんなことがどれくらい続いたか。肌寒くなり始めた緑道で声をかけてから半年ほどが経ち、おかずの上に保冷剤が置かれるようになると、会う頻度が減り始め、連絡してもすぐ返ってこないことが多くなった。
「上の子が受験生なのよ」
 久しぶりに会った杉村は、ほんの少し痩せたように見えた。短いボブだった髪が肩あたりまで伸び、肉のついた顎周りを隠しているせいかもしれない。
「整形外科は行ってんの?」
 これまで、野瀬という理学療法士に会うことを咎めたことはない。あくまでリハビリ治療であって、男女の逢瀬ではないことは分かっていたし、元々、若い彼への羨望や恋心が、代わりに自分へ向けられることを利用してきた自覚がある。
「まさか。さちちゃんに会うのが精一杯よ。主婦にそんな時間ないってば」
 疲れた表情を見て、子育ては大変なんだな、なんて、冷めた感情になる。かつては自分も子どもだったはずなのに、その部分だけが記憶から抜け落ちてしまったみたいだ。百パーセントの力で気に掛けられ、裸で抱き合う自分よりも大切にされる杉村の息子たちが、心底羨ましかった。タッパに詰められた残り物ではなく、彼女の家で、食卓に並べられる温かいおかずが食べたい。家事や子育ての、しょうもない愚痴を聞かされたっていい。とうに、メイクやオシャレをした杉村には飽きてしまっている。
 自分ができることは何か、必死に考えた。会えない時間は動画配信に精を出し、得た金でプレゼントを買った。ブランド物のスカーフや、便利なキッチングッズ、デパコスの基礎化粧品。初めこそ感激してくれたが、金額が大きくなればなるほど、杉村は怪訝な顔をする。そして私の手を握ると、「さちちゃん、旦那にバレてしまうからもうプレゼントはやめて」と、諭すように言った。それは嘘ではなかったのだろうが、単純に杉村が自分を疎ましがっているように思え、涙がぽろぽろと流れ落ちた。
 一体どうすれば、以前のように私に夢中になってくれるのだろう。頭がパンクしそうになるくらい考えても、一向分からなかった。自分はおかしくなってしまったのかもしれないと、微かな不安がよぎっても無視した。部屋が荒れ、片付けないまま動画を撮るので、心配したフォロワーから面倒なメッセージが送られてくる。「うるせえよ黙れ」等の暴言で返すと、運営に通報され、アカウントが凍結となった。
 そして、原点に戻ってみることにした。夕方久しぶりに私鉄に乗り、柴田整形外科の営業が終わるのを待って、野瀬斗真を追いかけた。すらっと伸びた背と細身のスタイルで、ジャケット姿がよく映える。駅の改札で同僚と別れた野瀬は、横浜方面のホームへと上がって行った。後ろから追いかけ、停車駅を尋ねるふりをして声をかける。
「すみません。次の電車って、菊名に止まりますか?」
 関西弁のイントネーションを強く意識し、下から見上げるように野瀬を覗くと、驚いたようだったがすぐに反応してくれる。
「各駅なんで、止まりますよ。でもどこかで急行に乗り換えた方が早いかも」
「そうなんですか。どこで乗り換えよ」
 電光掲示板を見るふりをして、野瀬の親切を促す。
「多分、自由が丘かな。お姉さん関西の人ですか?」
「あーそうなんです。先週東京出てきたばっかしで」
 院内で見た、垂れ目がキュートな笑顔で、にこっと笑ってくれる。印象が変わるように服を選んだせいもあって、職場の患者であることに気付く様子はない。ここまでくれば、もうこっちのものだった。やってきた電車へ一緒に乗り込み、自由が丘で降りる前に連絡先を交換した。扉が閉まる前に手を振ると、照れくさそうに振り返してくれる。
 野瀬を部屋へ招いた日、もう一台のスマホを予めセットし、一部始終を録画しておいた。全体が映るように設置したせいで、細かい表情は掴みづらいが、裸で抱き合っているのが野瀬と私であることは、ふたりを知っている人間が見れば、一目瞭然だ。

 初めて入ったファミレスへ杉村を呼び出す。電話をかけると「ホテルへは行けない」と言われたので、ここを提案した。
 約束の時間を十分ほど過ぎてやってきた杉村は、正面に座ると、開口一番「もう、会うのはやめましょう」と冷たく言い放ち、水を持ってきた店員に、クリームソーダを注文した。
「なんで?」
「なんでって…ねえ?わかるでしょ?」
 呆れて言葉も出ないと言わんばかりに、答え探しをこちらに委ねてくる。
「わからんよ」
「さちちゃん、あたしさちちゃんが何してるか、知ってる」
 一瞬何を言われたのか分からなかったが、すぐに動画のことであると気付いた。まさか杉村が、アダルトサイトで私を見つけたとは思えない。
「っ、スマホ見たん?」
「違うの。ほら、よくスマホ開いたままにするでしょ?たまたま通知が見えたから、検索したら出てきたのよ。だって、さちちゃん高いものばっかりプレゼントって持ってくるから。フリーターで、あんなの買えるはずないと思って…」
「なにそれ。さいてー」
「勝手に見たのは本当にごめんなさい。でもあたし、それで我に返った。息子たちもいて、頼りないけど旦那に養ってもらってて、なのに自分を売ってるような若い女の子に夢中になって…利用されるだけに決まってるのに」
 驚いて杉村の顔を見ると、言いきったことに満足したのか、気怠げに頬杖をつく。その仕草があまりに憎々しく、ちょうど運ばれてきたクリームソーダを倒してやりたくなった。しかし寸前のところで思いとどまると、スマホを取り出し、例の動画を再生する。目の前に差し出すと、杉村は怯えながらも恐る恐る覗き込んだ。
「っ!」
 声にならない声が杉村の喉で鳴る。何か言いたいのだろうが、台詞が見つからないらしい。はっはっと過呼吸のように短く空気を吸うので、肩が小刻みに上下した。動画に釘付けになった視線は、外さないままだ。
「ななえさんが出来ひんなら、私がすればいいんちゃうかって思ったんよ。私が野瀬と寝るのは簡単やし、ななえさんは、多分したくても無理やろ?やから私がすれば、ほら。それで私がななえさんとセックスすれば、完璧やんか?」
「は?何、言ってるの?」
 多少困惑するだろうとは予想していたものの、何処かで、実は喜んでくれるんではないかという期待があった。だって、あの野瀬と繋がった私だ。その私が、野瀬よりも杉村を選ぶと、言っているのだから。
「それにあの人、婚約者おんねんて。知ってた?婚約してんのに平気でうち来たし。ななえさんが思てるほど、ほんまはいい男ちゃうと思うねん」
 いつかと同じように席を立ち、向かい側へと移動する。杉村が身体を縮こませたことには気付かないふりをして隣へ滑り込むと、今日本当に言いたかったこと、伝えたかったことを口にした。
「好きなんよ、私。ななえさんが。初めて見た時から気になってしゃあなかった。なんかわからんけど、阿呆みたいに好きで、好きで好きでたまらんねん」
 テーブルとソファにそれぞれ手を付き、窓際へと彼女を追いやる。何も塗っていない肌にはシミが散らばり、たるんだ瞼がまつ毛に重なっている。何に惹かれているのかは自分でも分からない。それでも、どうにかしてこのおばさんを、自分のものにしたかった。
「さちちゃん、そこのけてくれる?」
 震えた唇が言うので、拒否した。
「いやや。さっきの撤回してくれるまでどかへん。もう会わんなんてずるいやろ?私があーいう仕事してるからって、そんなんのせいにするなんて、ズルい。そもそも私は身体売ってるわけとちゃうし」
「さちちゃん…」
「私何したらええ?野瀬のこと連れてきたらええ?動画撮んのもやめて欲しいならやめる。別に結婚して欲しいわけちゃう。旦那と別れろなんて言わんし、家族もそのままでええよ。だから会わんなんて言わんといてほしい」
「さちちゃん」
「気持ち良かったやろ?絶対、旦那より良かったはずや」
 杉村は、目に涙を浮かべていた。ゆっくりとした動作で私の両手を持つと、それぞれを膝へと移動させる。身体を押し付けるようにして片膝を上げ座っていた私は、自然と両足を床に下ろし座り直した。
「あのね、言っておくけど、あなたがしてることは仕事じゃない。仕事なんて言えない。一生懸命働いてる人たちに失礼よ。だからあたしは、あなたの恋人にはなれない。もちろん、お母さんにも、なるつもりもない」
 杉村が淡々と話し出し、空気が凍りついていく。
「それに、こういうことするの異常だと思う。軽蔑する。これ、盗撮よ?そんなことの分別もつかない?」
 目の前にスマホを置かれ、再生ボタンを押される。画面いっぱいに、下半身に服を身に付けたまま、野瀬の性器を口に含む自分が映し出された。立ったままの野瀬の顔は半分切れているが、前後に頭を動かす私の貧相な姿は、エロくもなんともない。
「最初に気付くべきだった。あんな風に見ず知らずの人間に話しかけてくるなんて、どう考えたって変だしね。あなた、頭おかしいのよ」
 杉村が泣いたのは、私の告白を受けて感動したからでも、憐れんだからでもなかった。目の前のおかしな女が怖くて、恐ろしくて堪らなくて、涙が出たのだ。
「あなたと寝てたなんて虫唾が走る。どうかしてたんだわきっと。ほら、もう行って!消えて早く!早く!ほら!!」
 相撲の押し出しのように両手で突かれると、身体がぐっぐっとビニール製のソファを移動し、通路へと投げ出された。よろけて倒れた膝横へ、杉村のスニーカーが乗る。抱いたときはその重ささえ愛しく感じたのに、踏みつけられると重くて痛くて、腹が立つ。
「いったっ!このデブッ!!」
 真上へ立つ杉村へ唾を吐くように怒鳴ると、下アングルの二重顎を隠すように、上から緑色の液体が降ってきた。バニラが溶け、パステルカラーへと変化したソーダが、顔や頭の上でぷちぷちと泡を弾く。白のTシャツがまばらに染まり、突然甘い匂いが身体や髪から漂ってくると、塊になったアイスがゆっくり腕を流れた。
 カランカランと、杉村が店を出て行く音がして、私はその場でゆっくりと、横になった。舌を伸ばし、唇の端を舐めると、想像以上に甘い。「大丈夫ですか…?」と、女性店員が雑巾を持ってきたので、寝転んだまま顔を拭いた。天井が遠く、幾つも並んだ小さなライトが、重なって見える。
 
 大人のおもちゃを何個かネットで購入した後、しばらく自慰行為に耽った。もう前のように、母親の顔がよぎって集中できなくなることはなかった。指を挿れても、ブイーンと動いたままのカラフルなおもちゃを突っ込んでも、私は他の女の子と同じように興奮し、イくことが出来た。
 そのおもちゃを洗った後、鞄に詰めて実家へ帰った。片岡はテレビの前でゲームをしていて、母はダイニングテーブルに、昼ご飯の炒飯と麦茶を並べているところだった。
「あら、こうちゃん。どしたん」
 相変わらず端正な顔には、メイクがきちんと施されている。顔を見て一瞬躊躇いそうになったが、結局鞄から取り出したおもちゃを、食卓の真ん中にがちゃがちゃとばら撒いた。
「っひゃあ!なんやの!なに?!」
 素っ頓狂な声を出す母を見て言う。
「あんたがずっと私にしとったことは、こういうことやで。陸の前でも、目眩しにお香焚いとんの?」
 リビングから駆けつけてきた片岡が、テーブルの上を見て呆気に取られている。母はしばらく硬直した後、観念したように椅子へと身を委ね、「はあっ」と、大きく息を吐いた。
「あとな、私はこうちゃんちゃうからな?」
「知っとるよ。さちやろ」
 反省の色ひとつ見せず、当たり前のように言う母を見ても、もう何も思わなかった。思い出したくても顔さえはっきり出て来ない父に、つけてもらった大切な名前だ。母は忘れていなかった。十何年ぶりに娘の名前をしっかりと口に出し、私はそれを聞いた。それだけで、少し満足だった。
 椅子に座り、麦茶を飲み干し、炒飯を掻きこむ。母と私の間には、ピンクやオレンジの、悪趣味な色と形をした道具が、転がっている。
 これから、何をしようか。久々に弟を迎えに行ってもいい。
 焼き豚の香ばしさが鼻を抜け、口の中で熱々の卵が踊る。混じりけのない食事の匂いが、嬉しかった。炒飯って、こんなに美味しかったっけ。
 真似るようにレンゲを取った母が、豪快に米粒をすくい、湯気ごと口の中へと運ぶ。すぼめると皺の深まる口元を見て、杉村の乾いた唇を、思い出していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?