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白む鯉の尾

あらすじ


ある出来事がきっかけで大学を中退し、まともな生活が送れなくなった悠は、仕方なくキャバクラのバイトでその日の生活費を稼ぐようになる。慣れない環境で出会ったのは、ボーイをしていた正義だった。一緒に暮らすようになり、さまざまな面でサポートを受けながら、悠は徐々に自分の人生を取り戻していく。過去の出来事と向き合うきっかけも正義は与えてくれるが、悠は吃音症と生い立ちを気にする内気な正義を受け入れられず、逃げるように家を出る。六年後の再会で、正義は謝る悠を許し、悠をまだ好いていることを告白する。その気持ちに応えられない現実と、複雑な感情と向き合いながら、悠は正義の幸せを願い、また一歩前進する。

本文

 古びた軽トラの荷台に載せられた椅子の背もたれを、汚れた雑巾で乱暴に拭きあげる正義(まさよし)を見た時、悠はこの路地を曲がったことを、いや、この路地を曲がるこれまでの全てを、後悔し、懸命に空気を肺に吸い込んだ。油断すると体内のわずかな酸素が漏れ出し、喉から壊れた音が漏れそうだった。もちろんこちらから声をかけなければいけないことは百も承知ながら、その声のトーン・色・高さの正解を、最後まで探そうとした。
「自分で拭くから大丈夫だよ」
 そう言った唇が震えていたかどうか、イントネーションが変でなかったかどうか分からない。味わったことのない緊張で逃げ出したい気持ちに苛まれながらも、久しぶりに目にするアンティークの椅子が、幌を被せられることなく、風を切って運ばれてきたことに気付き、思わずその脚に触れた。さっきまで椅子を固定していたらしい太い紐縄が、錆びた荷台の上で蛇のように戸愚呂を巻いている。車体に印刷された酒屋の名前には見覚えがあった。懐かしさと共に時間の流れを突きつけられ、苦々しい焦燥感に駆られる。
 すぐそこまで夏が迫っていた。美しい細工の施されたマホガニーの脚は、眠たい子どものような温度を悠の掌に伝えた。正義ともこの椅子とも、約六年ぶりの再会だった。
 椅子を肩に抱えた正義が、後ろに続く。随分前に別れた元恋人に、現在一人で暮らす部屋を教えるのは憚られたが、嫌だとも言えなかった。先に階段を登る悠の後ろ姿を見て、正義はやっとその日、第一声を放った。
「っ、ゆうちゃんっ、痩せたな」
 悠はできる限り、明るく振る舞って見せた。「そう?昔よりは、そりゃあねー」と、軽く後ろを振り返って答えながら、その後に続けるべきセリフを探してみたが、見つからなかった。緊張の類と力の入れ方が普段と違うせいで、たった数段を上がる間に息切れがした。思えば正義が到着する数分前から、本当ならゆるみっぱなしの腹筋に、力が入ったままだった。
 玄関先に椅子を運び入れると、部屋に招かないお詫びに、早い夕飯に誘った。「ご馳走するから」と言うと、正義は首を縦に振った。その動作を追いかけるように、ひとつに結われたこめかみの後れ毛が揺れる。そこに、付き合っていた頃にはなかった縮れた白髪が数本混じっていて、廊下側から照りつける西陽が、無情にもキラキラと主張させようとする。悠はすぐに視線を外し、見てみぬふりをした。もう正義の何についても自分は触れてはなるまいと、あの時、触れることを放棄したのだと、よく理解していたから。
 悠は正義が、未だスムーズに話し出せないことにも気付いていた。彼の口は昔と変わらず固く閉じたままで、それがゆっくりと慎重に開かれるまで、短い食事の間も、じっと耐えなければならなかった。

 正義と出会った頃の悠を一言で表すなら、東京に敗れたばかりの負け犬だった。歯車が狂ったのはいつかと遡ってみれば、大学受験に失敗したことが始まりだったのかもしれない。浪人すべきだと言う両親の説得を聞かず、滑り止めだった私大へあっさり進学を決めた。予想よりもずっと辛かった受験というイベントを、自分がもう一年頑張れるとは到底思えず、逃げ出したい一心だった。闘病中の祖父の病院を尋ね、皮膚が溶けて骨ばった手を強く握ると、高い学費の援助を頼んだ。祖父はかわいい孫のためならと、弱々しく首を振ってくれたが、それまで受験を言い訳に見舞いもろくにしていなかったからか、銀行に学費を納めに行った日、運転する父は助手席の悠を一度も見なかった。
 あんなことで、と思う。たったあれだけのこと。どうってことない、大したこともない、あんなこと。
 二年の終わり、単位が足りず留年が決まった。決して道を外れず真っ当に生きてきた両親にとっては、信じられない出来事だったに違いない。母はふたつ離れた妹の咲が、地元の国立大に合格したことを告げると、「ほんで、お姉ちゃんはどうするの?」ともう興味もなさそうに聞いた。きっと恥を捨てて懇願すれば、留年も卒業も可能だったのだろうが、悠はその未来を、自分の手で潰すことにした。
「大学はやめる」と伝えた電話に母は出なかったし、父は、「そうか。こっちには帰ってこやんのか」と、息を吐くついでのように漏らしただけだった。
 分かりやすく悠を責めたのは妹の咲だ。普段はほとんど連絡してくることがないのに、珍しく何度も着信を残すので、折り返したのだ。
「父ちゃん、趣味の家具作りも全然せんようになったし、休みもほとんど部屋から出てこんのやで。家の空気さいあくなん分かる?私の合格も姉ちゃんのせいで全部わやや。もうそっちで勝手にやってな。東京行きたかってんやろ?急に帰ってこられたりしたら困るし。迷惑やし」
 幼い頃はのんびりやで、姉の後ろをついてくるだけだった妹が、真っ直ぐ自分を責めてきたことに驚き、悠は何も言わず電話を切った。何よりも、両親が自分を直接怒ってくれないことが、文句のひとつさえ言ってくれないことが、酷くショックだった。
 何故留年するに至ったのか、言い訳になっても打ち明けるべきだったのかもしれない。しかし打ち明けたところで、状況が好転するとも思えなかった。
 大学生という肩書きを失うと、益々部屋から出られなくなる。そのうち息をするのもしんどくなり、時々誰にも見つからず死んでしまう自分を想像した。ワンルームの狭い部屋に、「東京」という街がのしかかって、小さな窓からこちらを覗き見ていた。悠が駄目になっていく姿を餌に、その存在はどんどん大きくなっていく。悠は、東京に出てきた頃の自分を思い出し、胸の中で強く抱きしめた。地方の田舎者である自分を捨て、なんとか順応しようと食らいついてきたつもりでいたのだ。大学の成績も悪くはなかった。友人だってたくさんいた。その自分が、あんな些細なことに立ち直れず、こんなに簡単に落ちこぼれてしまう等と、信じたくなかった。
 逃げ出すように引っ越した隣県でも、まともな生活は取り戻せずバイト先を転々とした。面接に出向き運良く採用されても、一週間程度で限界がくる。まず、朝起き上がることができない。目は覚めていても、布団から出ることが難しかった。立ち方を忘れてしまったのか、これまでどうやって頭を上げ、腰を持ち上げ、ベッドから起き上がっていたのかが、何故か分からなくなった。
そうしているうち、家賃やクレジット、光熱費の支払いが滞り始め、電話の着信に怯えるようになる。支払い期限の過ぎた払い込み用紙が郵便受けに溜まっていく度、頭の中をモヤモヤと煙が漂った。現実はあまりに鮮明で、曇った頭では処理が追いつかず、朦朧とした。
 しかし無情にも、腹だけが空く。身体も脳みそも動かしていないのに、食事だけは摂りたかった。夕方暗くなる頃を狙って部屋を出て、スーパーの割引弁当を買う毎日。それだけでは満たされず、百円台のパンで腹を満腹にした。
悠は明日の食費を稼ぐため、日払いのある仕事を探し始めた。仕送りがあったとはいえ、大学一年の頃にはバイトをふたつ掛け持ちしたこともある。ただその時には、選択肢として思いつきもしなかった、悠にとってちっとも馴染みのない水商売を選ばざるを得なくなった。幸い引越し先に選んだF駅は、その類の店が充実していたから、求人サイトから体験入店できる店を探す毎日が、スタートした。

 その場で体入の決まったキャバクラに、裏でドリンクを作り、洗い物をするボーイがいた。それが正義だった。いっぱいになった灰皿の山を、黒ずんだシンクの中でガチャガチャと崩し、坊主頭の店長に怒鳴られている。
「三上、お前まっじで死ねよ!」
 黒のベストを着た小さな後ろ姿は、本当に明日にでも死んでしまいそうに見えた。何度もしつこく同じ言葉を浴びせられると、その言葉に向かって、人は吸い寄せられていくのだと思う。三日目には、正義の姿を確認すると、安堵する自分がいたほどだ。
 毎日怒鳴られ続けているせいなのか、正義は「死ねよ!」と罵声を浴びせられても、肩や首、頬の皮膚ひとつ動かすことはなく、吸い殻を集め、残ったドリンクを流す手を止めなかった。定めもつけず勢いよく蛇口をひねるので、甘ったるいカシスの赤や濁った焼酎が跳ね上がり、ワイシャツの袖を汚していく。悠はその姿を見て、強く歯を食いしばった。
 正義と初めて言葉を交わしたのは、店の閉店後だ。
「お、つかれさまです」
 駅ビルの裏に停めていた自転車にまたがった時、後ろから微かに聞こえた声を、悠は今でも覚えている。その頼りなく湿っぽい声は、鼓膜をすり抜けてからというもの脳天に張り付いたままで、一向に剥がれる気配がない。アスファルトにこびりついたガムのようにしつこく、面倒で、太々しい。普段は目にも留めないのに、捉えようと焦点を切り替えた瞬間、斑点状に浮かび上がるその様は、意識するや否や、この身体を支配する正義の声と、よく似ている。
「お疲れ様です」
 真夜中を過ぎ、朝を待つ街の内側は暗かったが、正義の表情を確認できるほどには光があった。その頃の悠は明るい場所に立つことが苦手だったから、誰かと一対一で面と向かうには程よい暗さと湿度が、ふたりを静観した。
「じ、自転車」
 吃りとまではいかないかもしれない、しかし正義には、喋り出す際の突っかかりが確かにあり、本人もそれを気にしていた。たった一言、たった一文を話し出すまでに他人より時間がかかるという事実は、彼の気分をより一層曇らせた。うまく話せない自分に直面する度、正義は握りしめた拳の関節で、腿の裏側を擦る癖を直さなかった。スラックスの右腿裏は、そのせいか一部だけテカテカと滑らかで、ほんの僅か光っていた。
「ああ、近いので」
 送迎の車で帰る子がほとんどの中、自転車で来ている女が珍しかったのだろうが、正義はコンビニのビニール袋をゆらゆらと揺らしながら、それ以上何も言わず黙り込んだ。
 薄っぺらいトートバッグを前カゴに入れ、自転車を一回転させる。「じゃあ、」と右足でペダルを押した。正義は顔の向きを変えず視線だけをこちらに流し、街灯のあかりに伸ばされ、なかなかついてこようとしない悠の影を追いかけた。
「気をつけて」
 じっとりと生ぬるい声が、肩にやっと届くほどの毛先にまとわりつき、自転車を漕いでいる間も居座り続けた。分身である影が正義に捕われ、悠から離れたがっているかのように身体が重い。
 散らかった部屋に帰ると、今度は緊急度を示すカラフルな封筒や、ドアの隙間に差し込まれた管理会社のメモ用紙が、悠の脳みそを細かく切り刻む。トートバッグの中にある一万八千円で何ができるか、何から支払うのかを一瞬で計算した。明日も同じだけ働けば、その次もその次も、歯を食いばりあの店へ行けさえすれば、家賃と水道代だけでも支払うことができる。
 着ていた洋服を脱ぎ捨て、ユニットバスの小さな箱の中に収まると、宇宙船に一人きりにされたかのような孤独が襲ってくる。蛇口の赤や青が、シャンプーボトルのオレンジが、唯一地球に自分を留まらせることの出来る差し色のようで、すがるように掴む。頭頂部からお湯を浴びると、両太腿と下腹の肉がせめぎ合った三点に、水たまりが出来た。
 消費者金融に手を出した頃から、度々コンディショナーを流し忘れるようになった。タオルで拭こうとしてやっと髪のぬめりに気付くので、また息苦しいユニットバスに戻る羽目になる。せっかく水分を拭き取った背中や胸に再び熱いお湯が流れると、「死にたい」が土砂のように襲いかかった。「死にたい」がいつも隣にいて、悠がその手に落ちてしまうのを待ち構えているようだ。その気軽さに驚きながら、あのボーイと自分とでは、どちらがより死に近いかを想像すると、お湯を弾くように鳥肌がたった。
 次の日も正義は店にいた。悠の姿を見ても反応はせず、いつもと同じように、シンクで灰皿を転がしている。
 坊主頭が留守にすると、代わりに声を荒げるボーイがいた。女の子の付け回しを担当するその男は、首に星のタトゥーをいれ、頭の片側をモヒカンのように剃り上げている。形だけの面接をしたのも、この男だった。
「三上ちょっと来い!」
 男に正義が呼ばれ、見るからに癖の悪そうな客の前に差し出される。床に両膝をついた正義が、ソファに踏ん反り返った客を前で目を伏せ、ぐっと唾を飲み込むと、喉仏が皮膚を撫でるように上下した。
「こいつマジ使えないんで、坂田さんしごいてやってくださいよ!」
 モヒカン男が腕まくりをしながら、正義の襟首を引っ張った。背が小さく、体重も軽そうな正義の身体はその動きだけで宙に浮き、乱暴に放されたと同時に前へ倒れる。
「おいおい、大丈夫かよ。お前ちゃんと踏ん張ってねえと」
 坂田と呼ばれた客は、ビーサンを履いた爪先で正義の額を蹴った。よろけながら、「あ、はい」と律儀に返答する。
 この仕事を始めてからというもの、悠を見てあからさまに消沈する客の顔や、「ブス」とストレートに投げかけられる言葉に常に怯えていた。と同時に、その侮蔑に慣れ始めてもいた。悠は隣で唾を飛ばしながら話すサラリーマンを無視して、正義の様子に釘付けになった。見ないという選択は掠りもしなかった。悠にとって、それは決意だった。己の容姿をジャッジされ続ける数時間を過ごしながら、胸につかえる何かを必死に吐き出すまいとする。明日食べるものがなく、食べるものに困っているはずなのに、身体は脂肪を手放さず膨張し続ける。誰にも会いたくなかった。誰にも言えなかった。惨めな自分は、他人のように思えた。直視することが怖かった。だからこそ、出会ったばかりの赤の他人の正義を、自分よりも惨めな正義を、この目で見ていたかった。
 その日の体入が終わると、悠はモヒカン男にノルマや時給についての説明を受けた。店はまだ営業中で、廊下に出されたテーブルセットに座っているように指示されてから三十分後、ようやく男が自分の身体を投げ捨てるように椅子へと座った。話が言ったりきたりと的を射ず、止まらない貧乏ゆすりが机を揺らす。要するに、容姿が悪いのでうちで働くしかない、他では雇ってもらえないという舐められた助言だった。いつ来たのか、店内からは坊主頭が正義を怒鳴る声が聞こえた。
 こんな場所で、捨てるか残すか迷うレベルのゴミ扱いを受けるなど、悠の中の誰が予想していただろう。どこにいても、両親や妹に恥じない自分でいられると、信じて疑っていなかった。
「少し考えます」
 所謂「本入」をする気など最初からなかった。厳しいノルマを達成できるはずもなかったし、時給に期待できないのも明白だった。
 苛立ちを隠せなくなっていく男の、首に彫られた星が歪むのを見ていた。この男にも、タトゥーを彫るという決断があり、この店で働くという選択があり、見下しながらも女を説得するという職務があるのだ。腹をすかして母親のおっぱいを求めていた赤ん坊の頃の本能は、今この男の何を支配するのだろう。客と共に、うまく話せない正義をコケにする行為は、彼の何を満たすのだろうか。
 男から解放されると、悠は裏階段を使って地上へと降りた。土曜の夜、ひしめきあったビルの隙間からは妙な匂いがした。煙草の吸い殻が、踊り場の端で山になっているのを見つけ、サンダルの先でぐりぐりと踏みつける。紙と灰が擦れ合うと排泄物のような臭いが鼻を刺激した。頭の中で、男の星を同じように踏み付け、ぐっと喉仏を潰していく。
 あの日も確か、こんな臭いがした。人間の欲望が放つ悪臭に初めて触れた日だ。仲間には黒歴史だと笑われた。悠もそれを否定することなく、「勘弁してよ」と笑った。
 ふと気配がして振り向くと、一つ上の踊り場に正義が立っていた。悠は咄嗟に駆け出し、ダッシュで残りの階段を降り切った。正義は薄く色の悪い唇を開いていたが何も言わなかった。もしくは言えなかったのかもしれないが、それでも心臓がバクバクと鳴った。もう二度と会わない男のことなど気にする必要もないのに、悠は何度も背後を振り返った。もちろん、正義がついてくることはなかった。

 次の店では、穏やかな営業マン風の男が面接をした。モヒカン男よりも年配で、優しかった。「朝五時まで頑張れそう~?」と当然のように訊くので、悠は反射的に頷いた。
 深夜を過ぎる頃、店は満席になった。若い三人組の席に通されたが、男たちは挨拶する悠を見ても何も言わず、一瞥しただけで黙りこんだ。悠は負けじと、今日は休みなのか、夕食は何を食べてきたのか等、思いつくこと全てを片っ端から質問した。着慣れないノースリーブのワンピースを脇汗で濡らしながら、返事もせず携帯をいじる男たちに話しかけ続けるのは苦痛だったが、それでも止めなかった。
 質問が尽き、騒めく店内を見渡してみる。明らかに客の数が上回っていて、他の女の子がやってくる気配はない。下手くそなカラオケと大勢の話し声で、鼓膜が痺れていく。
 その時、ちょうど後ろのボックス席で赤いミニドレスを着た女の子が、身体の大きな男の膝に跨っているのが目に入った。名前も知らない女の子は、まだ十代に見えた。中年の客は、太い腕を彼女の華奢な腰に回し、片手で器用にテーブル上のグラスを探し当てる。ゴールドのチェーンネックレスが首に巻きつき、うなじの肉に埋まっていた。女の子はあどけない顔に金髪の髪を揺らし、少し腰をくねらせながら上へ跳ねたり、男のTシャツに顔を寄せたりと、踊っているのかヤっているのか分からない動きを繰り返している。
 男が口に一度含んだ酒を、彼女の大きく開いた胸の谷間に垂らすのを見た時、空いたグラスに焼酎を注いでいた悠の手元が狂った。テーブルの上、客の脛とスニーカーに、盛大に安物の焼酎をぶちまけた。
「何やってんだよてめえ!!おいブス!!」
 これまで頑として黙り込んでいた客に突然大声を出され、驚いた悠は焼酎の瓶からも手を放した。頑丈な緑の瓶は、テーブルの角に当たると跳ね返り、狭いテーブルにのせられた複数のグラスにぶつかってはじけ飛ぶ。フロアにも大きくグラスと液体が散らかり、通路を挟んだ向かいのテーブルの下まで氷が滑っていった。悠は、何が割れていて何が割れていないのか判別がつかず、パニックになった。ガラスのかけらを慌てて拾い集め、隠すように握りしめると、掌が切れた。赤いLEDライトに照らされ、血は黒い滴となって、カーペットに点を描いていく。
 隣の男はさらに声を大きくした。ぽたぽたと血が滴る悠の手元を見て、「きっも!触んなよ絶対!」と、スニーカーを床から浮かし、少しでも距離を取ろうと必死になる。もしわざと触ってやったら、この男はどうなってしまうのか、悠を殴るのだろうかと、こんな時にくだらない想像をする自分が、悠は嫌いだった。
「今日はもう帰ったほうがいいかもね~」
 一時騒然となった席を離れ、事務所で面接したおじさんに力無くそう言われると、悠自身の身体からも力が抜けた。テーブルの埋め込みガラスの弁償分で、給料はほとんど手元に残らなかった。ぺらぺらな封筒を、絆創膏に血が滲む手で強く掴み、店を後にする。
 エレベーターを降り、居酒屋のキャッチが立つ明るい通りに出ると、「もう、やめたい」と声に出した。入れ違いにエレベーターに乗り込んでいくサラリーマンのリュックが、悠の背中を強く押し退けていく。誰も彼もが自分の存在を無視するのに、苦しみだけははっきりと残るのが不思議だった。
 ふらふらと歩き出し、正義の店の前を通り過ぎる。ふっと右側から吹いた風が腕をさらったことに驚き、「ひゃっ」と叫んで初めて、そのビルの前にいることに悠は気付いた。生ぬるい風だと思ったのは正義の手で、正義の浅黒い手は悠の血で赤かった。絆創膏がいつの間にか剥がれ、傷が大きく開いている。
「っ、血出てる」と、吃りながら正義は言った。
「ああ」と返すと、今度ははっきりと「大丈夫?」と聞いた。大丈夫、と言いかけたのと同時に、正義が悠の掌に、顔を埋める。
「うっっ」
 剥き出しになった傷に舌がめり込み、思わず声が出た。正義はそれを合図に、滲み出た血をじゅっと音を立てて吸い出していく。
 腹の底から湧き上がる気味悪さと共に、何の躊躇もなく人の血を吸う目の前の男が、自分を救ってくれる救世主であるような、不思議な感覚に囚われた。もうこの機会を逃せば、自分は死んでしまうかもしれないという予感のちょうど真ん中で、悠は泣いた。これまでのどんな涙よりも、ずっとたくさん流れた。水滴は頬を伝っていなかったが、泣いている実感だけが、ただそこにあった。
 悠の自転車を引きながら、正義は革靴の足元を何度か鳴らした。深夜の住宅街にそれはよく響き、悠を途方もない気持ちにさせる。正義は、そんな風に落ち着かない精神を空気に乗せるのが上手かった。身体の何処かでリズムをとり、気持ちを表現した。何処の馬の骨かもわからない女の血を吸った正義はいくらかキリリとして見え、このままついていけば、ダイレクトに首筋から血を吸われるのではと馬鹿馬鹿しい妄想に耽る。しかしいっそ殺されてしまうのも悪くはない。なるべく痛くないといい、そう思った。

 コンクリートで固められた真四角の部屋に、正義は住んでいた。住人を見ずともひと目でわかる、男がひとりで暮らすその空間には、寂しく、質素な生活感が漂い凝縮されていた。汚れた電気ケトルに、抜け毛の絡まった敷き毛布。テレビ台の棚には木目調シートが貼られ、剥がれかけた端先が黄ばんだセロハンテープで止められている。窓際には大小のサボテンが並び、磨りガラスに影を作っていた。
 正義なりに、この部屋を自分の城にしようとする気持ちが、随所から感じ取られた。その小さな努力や工夫が手に取るようにわかるあまり、各所に目をやるのが辛かった。自分たちの強いられる生活が、人生が、こんなにも悲しく虚しいものだったとは、子どもの頃は到底知らなかった。大人になることは、もっと簡単だと思っていた。
 正義は古い救急箱を、押入れの奥から引っ張り出してきた。皺の間に茶色くこびり付いた血と唾の跡をマキロンで綺麗にしてから、一度巻き直した形跡のある包帯を広げ、ぐるぐると悠の手を覆っていく。思っていたよりも器用な指先の動きに、悠は見入った。関節の骨が浮き出た、猿のような手だった。
 手当が終わった後、話をすることもなく、薄っぺらい布団の上で悠は正義に抱かれた。擦り切れたシーツとやけに派手な布団が、凍っていた身体を温め、溶かしていった。
 正義は黙々と悠の中をかき回し、何かを探し求めた。サイズの合っていない大きめのワイシャツが何度も落ちてきて、ちょうどふたりの結合部を覆い隠す。悠が捲し上げると、正義は痺れを切らしてボタンごとシャツを引きちぎった。毛玉のついた綿の肌着が、正義の痩せた身体にピッタリと密着し、黒い肌を透かしている。頭の上で手を乱暴に握られると、とじかけていた傷口が開き、どくっどくっと血の溢れ出ていくのが分かった。イメージすると口内に鉄の味が広がり、悠はその時になって初めて、正義の唇を舐めた。正義の前歯は、左側が少し欠けていて、こちらの舌をほんの少し傷つける。その感触を求め、悠は行為中、何度も何度も正義の唇を探した。
 一度正義がイッてしまうと、腹の上に出された精子を拭きながら、中途半端に身体にまとわりついていた洋服を全て脱いだ。久しぶりに他人に見せる裸は、脂肪がつき醜かった。ただ若さが、その脂肪を滑らかにして、ほどよく弾力があり、触ると気持ちが良い。目の前の無骨な正義の身体とは当然違ったが、その違いが、ふたりが交わることの意味そのものだと感じられるまでに、悠は正気だった。
 正義も最後の肌着を脱いだ。白く薄い布が、名残惜しそうに腕にまとわりつき、乱暴に床に叩きつける。悠が握っていたティッシュの固まりを見せると、正義はそれを掴み、少し離れたゴミ箱に捨てるために腰を捻った。
 腕を伸ばす正義の背中が、予期せぬ色味を帯びていることに気付いたのは、その時だ。悠は慄いた。見てはいけないものを見た気がして目を背けるも、すぐにそれが、和彫の刺青であると認識する。
 大きな鯉と、その尾ひれを掴む童子が、背中一面に余すことなく描かれていた。色のない殺風景な部屋に、強い墨は馴染むことなく浮き上がって見え、悠は知らず知らずのうちに手を伸ばしていた。線をなぞるように指の腹を這わしたが、凹凸はさほど感じなかった。丸々と太った鯉が、あの天井の低い店ではとても小さく見えた背中の上で、堂々と天高く登っていこうとする様に、思わずため息が漏れる。
「なんで、こんな…」
 情けない声が出た。その後が続かなかった。
「昔、何となく、思いたって」
 正義は吃ることなく、ゆっくりと、三つに分けて答えた。何となく思い立ったにしては、背中に彫られたそれは大きく、複雑だった。
 まるで生きているかのような巨大な鯉は、めったに表情や声色を変えることのない正義の代わり、強い意志を宿している。悠には、母体から生気を吸い取る怪物のように見えた。
「いくつんとき?」と尋ねると、「十八の時」と答える。その時の正義から数えると、八年前の話だ。
 正義は自分から話し出すことは少なかったが、悠が尋ねると何でも正直に答えた。痛かったかと訊くと、「痛かった、多分」と、脱いだばかりの肌着を、皮膚が蛇腹のように重なった腹の上に、大事そうに抱える。
 再び繋がると、正義はぽつりぽつりと、パン屑を落とすように自分のことを話した。
「高校は、いっ、いかなかった。中学まで、施設で育った」
「家族は?親は?」
 悠が問うと、「っいるよ。地元に帰ったら、と、ときどき会うよ」と答える。その続きを待つと、「俺のことは、いいよ」と話すのをやめてしまう。
 正義は短く言葉を区切りながら、彼の尖った膝にあるイボをいじっていた。爪に引っ掻かれ、表面が白く乾燥している。うん、と返事をすると、布団の上に放り出していた悠の足を、自分の方へ引き寄せた。足裏を執拗に擦るので、思わず引っ込める。
「イボうつる」
「っ、うつんないよ」
 正義はイラッとした様子で否定しながらも、行き場の失った手をぎゅっと握りしめた。なんだか気の毒に思いまた脚を伸ばすと、今度は掌全体で、甲を強く撫でられる。
 彼が両親とどんな話をするのか、施設でどんな風に育ったのか、何歳の時、遠い地元を出て関東のこの街に流れ着いたのか、想像しているうち、足を引っ込める勇気を失っていた。それは爪先から痺れを感じるまで、正義の乾燥した手で延々と撫でられ続けた。昇り始めた陽が、薄いカーテン越しに頬をさす。普段は遮断したくなる強い光を、その日は受け入れることにした。目の前の男が、自分よりも圧倒的に不幸である事実に、悠は打ちのめされていた。

 悠が部屋に越してきた頃、正義はあの店を辞め、別のスナックのボーイになった。早朝には酒屋の配達の仕事を始めた。そして昼頃に帰ってくると、隣でいびきをかいて眠りこくった。ふたりが再び起きる頃に日は沈み、夜が訪れる。悠は正義が出てから三時間後に同じスナックに出勤し、ただの従業員とホステスのふりをしながら働いた。
「結婚したらマンション買いたい」
 正義は恥ずかしげもなくそういうセリフを口にする男だった。不動産のちらしを手にぼそっと呟く彼をみて、どうしたらそこまで妄想が飛躍するのだろうかと思う反面、純粋に嬉しく、愛おしく感じたのも嘘ではない。
 いくらかマシな環境ではあるものの、一緒に働くスナックでも馴染めなさを感じていた悠は、この世界で、正義とたったふたりだけになれる小さな1Kの部屋が好きだった。初めは湿っぽく、男一人の暮らしに眠っていた部屋も、ふたり一緒に住むことで、より狭く、温かくなった。
 悠は生活費が浮いた分、稼いだ給料を丸ごと借金の返済に当てた。しかしそのほとんどが利子分として消えていく事実に、相変わらず疲弊はしていた。なんとか昼間働く生活に戻りたいと、自分の中に残っていた小さな小さな火に、必死で薪をくべる作業が始まった。
 自分の履歴書を見ると、その見事な落ちこぼれぶりに惚れ惚れする。地元の進学校からの、中途半端な私大への進学と中退。職歴は無いに等しく、正社員を目指す就職活動は難航した。帰宅後、疲れてスーツのままで眠っていると、朝方帰宅した正義が上着を脱がし毛布をかけてくれた。悠がすぐ食べられるように食事が用意してあることも多く、塩っぱい味噌汁をすすりながら泣きそうになったこともある。そこにはささやかな幸せが確実にあって、壊れそうだった悠の心を満たしていった。けれど満たされれば満たされるほどに、傷を硬く覆っていた瘡蓋が、ぽろぽろと剥がれ落ちていくのが手に取るように分かった。ピンク色の皮膚を剥き出しにした真新しい意識は敏感で、多くを受け止め過ぎてしまう。正義を嫌いなわけではない。ただ、暗く、話すのも笑うのも苦手な男を、悠は心から好きになることが、出来なかったのだ。
 正義はふたりでいてもほとんど話すことがなかった。時々ぼそぼそと自分の憧れや理想を語ったが、ゴールの見えない、空を掴むような妄想に悠は辟易した。悠は何より、部屋の外での正義の振る舞いが、どうしても受け入れられなかった。買い物中も黙って悠の後ろを着いてくるだけで、立ち止まっても声をかけることさえしない。後ろを振り返ると、姿が見えないほど距離が離れていたりする。イライラしながら元来た通路を戻り、こちらが声をかけても、表情を変えてもくれない。
 居酒屋やファミレスで、店員が聞き取れないほど小さな声で注文する彼氏を見るのも、しんどかった。痺れを切らし悠が二人分を注文すると、同じ年齢ほどの女性店員が、含みを持たせた動作で大きなメニューを回収していく。気にしないようにすればするほど、無視できなかった。それはやっとのことで就職が決まり、これまでふたりきりだった世界が開かれていくほどに顕著になった。
 いつだったか、広い部屋に引っ越したいと正義が言い出し、不動産屋に出向いたことがある。カウンターの席に通され、名前や現住所を記入する簡単なシートが、正義の前に置かれた。悠は壁に貼られた物件情報を見ながら、正義が書き終わるのを待った。ペンが進んでいないと思ったので横から覗くと、かろうじて名前を書き終えていたものの、住所の欄で手を止めたまま、正義は何かを迷っている。
「郵便番号忘れた?」
 たまたま鞄に入っていた携帯料金の請求書を見せると、正義は止めていた右手をまた少しずつ動かし、番号を書き留めた。筆圧が弱く歪な数字が、枠内に収まり切らず飛び出す。電話番号も見ながら書いたはずの住所も、読むのが難しいほど薄い上に、乱雑に置かれた将棋の駒のように一文字一文字が取っ散らかった。特に、県名から後ろの漢字を書くのが難しかったようだ。十分近くかけてやっと全ての項目を記入し終える頃には、正義の額に汗が滲んでいたが、悠は気付かないふりをした。「代わりに書こうか?」とも最後まで聞かなかった。
 悠はそれまで、字を思うように書けない人間には出会ったことがなかったし、そういう人間と関わることを想像したこともなかった。自分にとって簡単なことにつまずく正義を恥ずかしいと感じながら、彼の生い立ちや環境から、その難易度を慮る余裕が持てない自分にも腹が立った。
 正義の人生を知ることと、それら全てを受け止め寄り添うことが、別物であることに気付いたのはその少し後だ。一緒に住むようになって、一年ほどが経とうとしていた。セックスはしなくなり、何処かに連れ立って出かけることもほとんどなくなった。引越しの計画も、当然のように流れた。
 喧嘩になると、正義は悠がぶつける言葉に一生懸命自分の言葉で返そうとした。悠は正義から途切れ途切れに放たれる支離滅裂な言葉たちを、頭の中で必死に並べ直した。理解したいと思えば思うほど、カッコ悪い正義を受け入れようとすればするほど、腹が立つのを抑えられなかった。
「っゆうちゃんに、オレの気持ちは、絶対わからない」
 いつか、正義が言ったセリフを思い出す。
 ひとつ屋根の下で、妹と共に愛されて育った。母は穏やかで愛情深い人だ。父は厳しい人だけれど、いつも悠たち姉妹の傍にいてくれた。家族四人、一緒にいるのが当たり前だった悠に、正義の寂しさを理解することは、理解しようとすることは決して許されない。そのことを強く叩きつけられた瞬間だった。そして心の何処かで、理解できないことに安堵もした。「お前にはわからない」と言われると、背負った記憶のない肩の荷が降りる気がした。いっそ、わかってたまるかと殴ってくれれば、自分を許せるかもと思ったが、正義が手を挙げることは、一度だってなかった。

 何の不自由もなく育ててもらい、上京費用も援助してもらったからこそ、悠は両親に、あのことを話せずにいた。話すと、弱くて無価値な自分を認めてしまうようで怖かった。
「ゆうちゃんのそれ、嫌だ」
 部屋着に着替えるため下着姿になった悠に、正義が難癖をつけてきたのはいつだったか。元々腹が出てるだの、尻が垂れてるだのと悠の容姿にケチをつける癖はあったが、そこまで嫌悪感を表されたのは初めてだった。悠は正義の目線の先、自分の臀部を見た。肉割れの跡に混じって皮膚が一部ひきつり、ケロイド化している。
「無理」
 条件反射のようにそう返すと、正義は黙った。本当はどうしようもないことも分かっていて、敢えて話題に出したに違いなかった。
「嫌でも無理。そんな簡単に治んない」
 言葉を選べない正義に苛立ち、また重ねた。
「っ、それどうしたっの?」
 たった七文字を詰まらせる恋人を前に、フォークを振り下ろす自分を想像する。四本の尖った先端が正義の皮膚を越え、その下の硬い肉に刺さり、少し裂く。
「いやあっ!」と叫んだ悠の声も、確かあの動画には入っていた。スカートをたくし上げられ、逃げ出そうと翻した背面に、突然切り裂くような痛みが降ってきたのを覚えている。すぐ横にあったフォークは、誰が使ったものだったか。きっとポテトフライの油で、貝塚の手は滑ったに違いない。
 飲み会はいつもの先輩の部屋で、同級だった貝塚や小山ももちろん参加していた。他の女子が帰った後、酒に潰れて眠ってしまった悠の身体を、冗談まじりに触り始めたのはよく知らない先輩の連れだった。悠は寝返りを打つふりで逃れようとしたが、そいつは手を退かさず、それどころか反応を示すと喜んだ。
 悪ふざけだったのは分かっている。小山が面白がってその様子を動画に撮り始め、肌が徐々に露わになっていくと、遠慮がちにカメラワークはブレた。小山の画像フォルダがフェイスブックと同期していて、悠の半裸姿がタイムライン上に流れてしまったのも故意ではない。貝塚がフォークを握ったのも、白く柔らかい尻を前に、軽くつついてやろうくらいの気持ちだったのだろう。下着に手をかけられた途端に暴れ出した悠に驚いて、必要以上に振りかぶってしまったことも理解できる。
 そう、頭ではきちんと理解していた。だからたまたま動画を見た周りの反応にも笑って返すことができたし、一瞬映り込んだ乳輪の色や陰毛を揶揄されても気にしなかった。潰れた乳房がべとついた手で乱暴に擦られたことも、「悠は何しても怒んないから」と小山が笑っていたことも、気にしていないふりでやり過ごせば、いずれ平気になると思っていた。むしろ周りの方が、そんな騒ぎはすぐに忘れた。忘れられず傷ついた自分を受け入れられなかったのは、悠の方だった。段々、笑って過ごすことが、大学へ通い授業に出て、今まで通り過ごすことが、辛くなった。
「それってレイプだよ」
 正義にそう言われた時、叫ぶ悠を宥めようと覆い被さってきた貝塚の股間が、布越しに尻の割れ目に押し付けられた感触を思い出していた。「違う」と言うと、正義は怒った。眉間に濃い皺を作り、男にしては長い髪をぐしゃぐしゃと混ぜるように頭を掻きむしる。
「犯罪だってば」
 悠は、後ろから身体に巻きつく貝塚の腕を振り払い、もう片方の手でスカートの裾を引っ張った。右の腿裏が猛烈に痛み、指に血がついた。赤く染まった自分の短パンを見て、貝塚は顔の筋肉全てで、不快感を露わにした。
「ウケる」という先輩の声とともに、動画は終わっている。その動画に限って何故公開設定になっていたのか、悠は小山を問い詰めなかった。密かに小山に惚れていたし、翌日すぐに削除してもらったからだ。当然、謝ってもくれた。
「別に暴行されたわけじゃないし」
「っ、暴行っだよ。傷になってるじゃん」
「こんなの、どうってことないって」
 布団の上にあぐらをかいていた正義が突然立ち上がり、よれたTシャツの上からパーカーを羽織る。
「警察行こ。ゆうちゃん」
 割れ物を、水平な場所を選んで置くように、正義は確かな声を出した。座ったままで動こうとしない悠の腕を掴み、引きずって玄関へ連れて行こうとする。悠は必死で正義を止めた。床に積まれた雑誌や掃除用ローラーが、足や尻に当たって定位置をずらす。トイレのドアに小指が引っかかり、爪がそり返った。
「まーくん!まーくんいいってば!!」
 正義は顎を振るわせ、ガチガチと歯を鳴らした。ドアの前まで悠を連れていくと、「だって、悔しくねーの?!」と声を荒げる。悠は、「いいよ、いいいい」と首を左右に振り続けた。尻の下には、いつも正義が履いている傷んだ革靴があった。酷く冷たい玄関タイルには砂と埃が溜まっていて、足裏でジャリジャリと、ふたりを囃すように音を立てる。
「いい、いい、いいいい」
 悠は呪文のように唱え続け、正義の手から力が抜けるのを待った。正義が諦めてくれさえすれば、また忘れようと頑張ることができる。あの頃、薄々感じていた自分の小ささや存在の軽さを、もう思い出したくなかった。何もかも気付きながら必死で取り繕い、みんなに馴染もうとする自分が怖かった。許せると思い込んで笑う自分が恐ろしかった。それは、キャバクラでブスと罵られた瞬間にも感じることのなかった恐怖だ。
 悠は正義の膝の裏に顔を埋めた。しばらく嗅いでいなかった、湿った男の匂いがした。途端に涙が溢れ、一度膝裏に溜まった滴が、濃い毛を伝って前へと流れていく。脛をつかむ悠の手も一緒に濡れた。正義はドアノブを掴み、ガチャガチャとイライラをぶつけ、身体を揺らした。
「っほんとにバカだなあゆうちゃんは!!」
 悠はこのことで、自分がまだ泣けるとは思っても見なかった。正義の大きな声を聞いて、情けなくもまた涙が流れでる。バカと言われても腹は立たなかった。バカでいいのだと、バカでいたいのだと、ずっと言い聞かせてきたのだ。
 ただ、悔しくないのかと訊いた彼にも、悠は訊きたいことがたくさんあった。きっと正義は、悠の問いにうまく答えられないだろう。だからそれきり、二度と、その話をすることはなかった。

 職場の上司と、ふたりで出かけるようになったきっかけはあまり思い出せない。正義とは違い、饒舌な男だった。仕様もないことを延々と喋る才能があった。そんなことさえ才知と感じ、惹かれる自分がいかに滑稽だったかは、ようやく今になって分かる。
 他の男と時間を共にすると、正義と顔を合わせることも苦痛になり、自分を偽る日々が続いた。昼間に働くことで、生活する時間がずれていたのは幸いだった。それでも、数少ない正義の休みの日には、共に夜を過ごすことになる。悠は時々布団を抜け出しては、身体一つすっぽり収まってしまう狭いキッチンで、膝を抱え、声を殺して叫んだ。
 分厚い脂肪に覆われていた腿と腹は、何年かぶりに隙間を取り戻していた。モスキート音に近い悲鳴で、卵のように抱えた空気が細かく震える。あの頃とは別物の身体にすっかり意識を取り戻し、男を選ぶ権利を得たような、そんな下衆た錯覚に陥っていたことに自分でも驚いた。屈辱的な言葉に怯える必要がなくなり、もやのかかった長い眠りからやっと覚めたのだ。自分だけは違う。自分はこいつらとは違うと言い聞かせながら歩いた道を、今は明るい時間に堂々と歩けている。もう戻りたくない。あの自分を知る正義とは、もう肩を並べたくない。
 そう思うのに、朝目覚めると、テーブルの上に小さな弁当箱が置かれている。白飯に、焼き鮭と卵焼きの載った簡素で塩っぽい、でも確実に美味いことの分かる弁当の横には、ぬるくなれば不味いに決まってるヨーグルトのデザートが、添えられている。
「いいって言ったのに」
 悠はそう呟きながら、袋の中に弁当箱とヨーグルトを詰め、できるだけ鞄の奥に押し込んで会社へと向かう。
 いつぶりか分からないセックスを受け入れたのは、部屋を出ていくことに決めたからだ。正義の顔を見なくて済むように、自ら布団に顔を押し付け、腰を高く持ち上げると、打ち付けるリズムに合わせ目から涙の粒が落ちた。正義と初めて歩いたあの夜流れなかった涙が、この時になってこれでもかと溢れ出た。助けを求めて飛び込んだはずの場所から解放される喜びが、全身を貫く。泣いているのを隠すほどの良心だけが、かろうじて残っていた。
 数日後、別れ話もせず部屋を出た。土曜日だった。早朝、酒屋のバイトに出かける正義を布団の中で見送ってから、必要最低限の荷物を持ち電車に乗った。秋晴れの、さわやかな朝だった。
 部屋は、隣町に既に借りてあった。家具も電化製品もない殺風景な狭い部屋に、ネット通販で買った布団を一枚敷くと、その上に大の字で寝転がってみた。音もない空間で白く低い天井をずっと眺めていると、まるで自分の方へ迫ってくるような錯覚に陥ったが、もうあの頃のように東京に怯えることも、自分の存在価値を疑う必要もなかった。真新しい布団の柔らかさと心地よさに、ただ泣けた。
 ひとりの生活が安定すると、疎遠になっていた家族に連絡を取った。妹の東京転勤の際には引越しも手伝い、徐々に家族との時間を取り戻していった。
 実家に久しぶりに帰った時、決して話すまいと決めていた全てを両親に打ち明けることができたのは、きっとあの時、自分の代わりに正義が怒ってくれたからだ。母が泣き、父が狼狽えても、悠は冷静でいられた。果たして、あの出来事を乗り越えられたかは分からない。忘れてしまえるかも、思い出した際に平気かどうかも分からない。ただ、あなたは怒っていいんだと怒ってくれた人が、悠のそばにはいた。職場で「死ねよ」と怒鳴られても微動だにしなかった正義が、そのことには声を荒げてくれた。
 父や母と話をする時、妹と顔を合わせた時、恋人と別れる時、そういう節目には必ず、正面であぐらをかき、一生懸命言葉を探そうとする正義の姿が思い出された。それが尊敬の欠けた一時の感傷であっても、悠は記憶の中の正義と、話さずにはいられなかった。
 父が体調を崩し、検査入院することになった時、病院のロビーで衝動的に電話をかけた。呼び出し音が途切れた瞬間、「椅子を取りに行きたい」と挨拶もせず言い放つと、「分かった」と正義は返事をした。その後でやっと、父が入院することや、椅子は父が趣味で集めていた家具のひとつだったことを説明すると、正義は運搬役を買って出た。
「何も言わんと出てって、怒ってる?」
 六年前の朝、悠の帰りを待つ正義の背中を想像しながら、トランクの中に服や靴を詰めた。正義はきっとしつこく連絡してきたり、自分を探そうとしたりはしない。置いていった悠の持ち物を捨てたりもしない。ただ静かに、悲しむだけだ。小さな背中をこれでもかと丸め、細く、息を吐くだけだ。そのことが分かっていたから、あんなずるい行動を選んだ。
「怒ってないよ。連絡くれて、嬉しいよ」
 そんなセリフ、言わせたいわけじゃなかったのに、答えを聞いて安心した。逃げて終わりにするなど許されないことは分かっていた。もう一度正義と会わなければ、会って謝らなければ。そのときがとうとう来たのだと、悠は合点した。

 蕎麦屋で短い食事を済ませた後、うちまで送ってもらいながら悠はたわいもない話で場を繋いだ。しかし一瞬途切れた瞬間を、正義は見過ごさなかった。
「今付き合ってる人はいるの?」
 そういう聞きにくいはずのことに限って正義が吃らずに話すのを、軽トラの助手席で外を眺めていた悠は思い出した。夕方の帰宅時間にかぶって車はなかなか流れず、車内の気まずい空気に拍車をかける。
「それっぽい人はいるよ」
 嘘でも本当でもない事実をそのまま口にした。「まーくんは?」とすぐに問い返す。視界の隅で捉える正義は、付き合っていた頃の呼び名で呼ばれたことに、顔を綻ばせた。
「いないよ。ゆうちゃんと別れてから、誰とも」
 予感はしていた。しかし実際に言葉にされると、重みが全く違った。人が躊躇する言葉に限ってスラスラと口にする正義が憎かった。
 歩道を歩く幼い男の子が、勢いよく転ぶのが目に入る。後ろにいた母親が心配そうに駆け寄ると、男の子は顔をあげて笑ったのにも関わらず、今度は泣くことにしたようで大きな声をあげた。「うわーん!」という漫画の吹き出しがつきそうな泣き声は、その場にいる人間の注目を一身に集めた。
「もう、誰のことも好きになれないと思う」
 正義は、男の子の声を無視した。悠は無視できなかった。「泣いちゃった」と、親子の方を指差す。運転席を見ると、正義は前を向いたままきつく唇を結び、肩が震えるほど両手で強くハンドルを握っている。
「そんなことないよ」と言うと、「そんなことあるんだよ」と、小さく、はっきり発音した。
「ごめん。まーくん、わたし、ほんまごめん」
 絶対に泣くまいと決めていたから、声だけが不自然に上擦る。
 恨まれるなら、きちんと恨まれたかった。もう逃げも隠れもしないから、ちゃんと軽蔑され、とことん嫌いになられたかった。
「ゆうっちゃんっは、悪くない、よ」
 なのに正義は、わざとらしく吃った。

「これどしたん?」
 何度か家に来ている男は、狭い部屋に追加された仰々しい細工の椅子に勢いよく座りながら、笑ってこちらを見た。白ワインが飴色の塊となり、大袈裟にグラスの中で暴れている。
 肘掛けに置かれた腕は、海でサーフィンをする男らしくよく焼け、蛍光灯の光を綺麗に吸収している。悠よりも若く、肌艶も良い。太陽に晒されてもそれに負けることのない強い肌は、悠の五感を魅了した。
「返してもらった」
「え、貸してたの?誰に?」
 不思議そうに問い返すと、少し乱暴に足を持ち上げ、椅子の上であぐらをかく。正義が強く雑巾で擦っていた部分に触れたくるぶしを見て、妙な苛立ちが湧き上がった。悠はまだ一度も、その椅子に座っていなかった。
「元カレ」
 言わなきゃいいのに、余計なことが口をついて出る。
「元カレ?この間の?」
「違う」
 悠の口は止まらなかった。喉も舌も止まらなかった。躊躇なく目の前の男の質問に答えた。言わなくていいことを、答えなくていいことを答えてしまうのが悠の癖であった。これまでの人生も、こんな風にしなくていいことの連続だったように思う。見なくていいものを見、聞かなくていいことを聴き、言わなくていいことを片っぱしから口にして、それでいて、伝えなきゃならないことは全て、身体の隅々に隠してきた。悠は思った。正義に、「ありがとう」と言ったことはあっただろうか。あれもこれも、しなくていいのにと、咎めてばかりではなかったか。
 男が椅子から立ち上がって、ベッドへと移動する。何の思慮もないその動きが、この後のセックスを促すものだとも分かっていた。しかし悠はついていく気にはなれず、入れ違いに椅子へ腰を落とした。少し沈む感覚があり、肘掛けに手を置くと、正義の拭き残した埃が指につく。ざらざらとした。
「まだ、私を好きみたい」
 何故かそのことを口にしたくなった。誰でもいいから、聞かせたかった。今にも悠の胸の中で、他人である正義の気持ちが爆発しそうになっていた。
 この先も、悠は正義を好きにはなれないだろう。抱かれることも出来ないし、隣にいることにもきっと耐えられない。彼が話し出すのを待ち続けることもきっと無理だ。けれど、この何よりも重く罪深い哀しみは、他の誰にも絶対に、理解することはできない。「ゆうちゃんには、絶対分からない」と、あの日正義が言った言葉が、心臓の裡側を引っ掻くようだった。浅い傷が付き、痒くて痒くてたまらないその部分を、自分は掻きむしることさえ許されない。
「なにそれ。重くね?」
 当然のようにそう返ってきた。その通りだった。そうだよ。重いんだよ。だけど、それが、なんだよ。
 悔しくて、今の気持ちをうまく言葉にもできないみみっちい自分が悔しくて、グラスを持つ手が力んでいた。安いワイングラスは片手で割るには分厚く、わざと力を込めてもびくともしなかった。諦めて開いた掌には、いつか正義の舐めた傷痕が、うっすらと残っている。
 悠はまだ、あの日のことを鮮明に思い出すことができる。くだらないことに押しつぶされそうだった。傷付いている自分を、さらに傷付けてきた。突然現れた正義がこの手を取り、なんとか今、生きている。
 肘掛けの丸みを、親指の腹で何度も擦った。正義は常に、どこかに触れていないと落ち着かない男だった。腿裏や、膝のイボ、悠の足先や下腹。スラックスは一部だけ変色していたし、イボは剥がれそうになりながら頑固にとどまり続けた。
 悠は正義と過ごす間、身体の一部が摩擦でひりつくのを感じながらじっと耐えた。だから再び、耐えようと思う。この胸を擦り上げる痛みに、これから先もずっと、耐え続けようと思う。
 誰かの幸せを願う時、それがあまりにも身勝手で、無責任であることに絶望する。それでも、その絶望を決して手放すまい。
 悠は呟く。
「お前には分かんねえよ」

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