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社会人サッカーチーム

日本サッカー協会(JFA)に登録しているクラブは2021年は全部で26,596チームだそうだ。
 小学生のチームから、もちろん中学、高校生、大学、社会人、女子サッカー、Jリーグのクラブまで合わせた数だ。日本にあるサッカークラブは中学校の部活動チームなども含めて、漏れなく登録している組織である。

 若い頃に、その中の1クラブを結成してリーグ戦に参加していた時期があるので、その話をしてみようと思う。

 幼い頃から運動が苦手で足も遅かった。しかし中学生になり陸上部に入って体力と走力は人並みになったと自負していたので、高校ではサッカー部に入部した。サッカーが盛んな地域でも無く、当時はメジャーなスポーツではなかったので高校から始める部員が殆どだった。なので大会でも一回戦を勝つか負けるかのレベルだったが3年間は真面目に取り組んだ。

 24歳の頃にJリーグが発足し、その年にドーハの悲劇というセンセーショナルな出来事もあり、空前のサッカーブームが起きていた。
 斜向かいの幼馴染の兄弟の弟の方がサッカー部に少しだけ入っていたと知っていたので、会うといつもサッカーの話で盛り上がっていた。

 どちらから言い出したか覚えていないが草サッカーチームを作れないかと言う話題が出た。
 聞くと高校時代のサッカー部のキャプテンも入りたいらしく他にも数名希望者がいるらしかった。それならと自分も高校時代の同級生のキャプテンに声をかけ参加してくれる事が決まった。他にも声をかけた元部員が集まってくれて、足りない分を自分の友人を無理矢理誘って全部で18名ほどになりチームとして成り立つ人数になった。

 チーム名は集まってくれた部員の住んでいる地区の頭文字を3文字拝借して名づけ○○○.FCとし、ユニフォームも作り、会費も設定した。
 全員が社会人だったので練習はほとんど出来なかったし、試合をしたくても相手チームを探すのが結成当初は難しかった。

 そこで日本サッカー協会の下部組織である県のサッカー協会に入って、社会人リーグの1番下のカテゴリーである県の地域リーグに参加しようという事になった。
 記憶が定かでは無いが12〜15チームぐらいで総当たりだったので年間で11〜14試合ぐらいの試合数になった。1番下のリーグなので審判は試合が無いチームで持ち回りでやるので、審判のユニフォームとレッドカードとイエローカード、線審の旗を用意しなければならなかった。
 
 今でも覚えているが初戦は酷いものだった。即席チームで碌に戦術も無かったし、練習不足は明らかだったので、個人でなんとか頑張っている状態が続いていた。先発からあえて外れて試合を見ていた高校時代のキャプテンが見兼ねて交代で入ると言いだしたので、後半は少しはマシになったが1点も取れずにその試合は負けたと思うが、試合後は皆んなで反省会と言うか試合中の出来事を談笑していた。試合には負けたけれど試合が出来た喜びの方が大きかった。

 強いチームも弱いチームも、必ず最初に所属するリーグなので、実力差は滅茶苦茶あったし、年齢層もバラバラで高校出たての若いチームから、おじさん多めのチーム、ブームに乗って作った我々に似たチームなどなど、玉石混交のリーグだった。

 20代前半から後半にかけて数年間活動してチームは解散したが、勝ったり負けたりを繰り返し、活動中はとても楽しかったし試合の後の打ち上げのビールも美味しかった。

 それ以来会っていないメンバーが殆どなので、久しぶりにその時のメンバーの顔を思い出して懐かしく思う今日この頃です。



 

 

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