誰かのために生きるのをやめてみた。

人って、知らず知らずのうちに、誰かの視線を感じて生きているわけです。

「こんな格好で外歩いたら恥ずかしくないかな」とか、
「バカに見られてたらどうしよう?」とか、
「大したこと無い奴だって思われたくないな」とか。

なに達観したようなこと言ってんの?って話なんですけど。

で書いた事の”続き”のような話なんですが、

ほんと、人生というやつを振り返ると、
誰かの目を気にして、
「誰かのために生きてるなぁ」と、いや、

「誰かのために生きて”しまってる”なぁ」

とか思うわけです。

「地平線を追いかけて満員電車を降りてみた」(紀里谷和明)にも書いてあるのですが、

例えばホームレスになったとして、
「ホームレスになるなんて恥ずかしい」と思うのですが、
誰に対してそれを思うのでしょうか?と。

「周りに対して」みたいなのがあるんですけど、

”周り?それはどこの誰のことですか?”

と冷静に考えるとわからなくなるわけです。

この本の中では、
人間には「子供の心」と「大人の心」があって、
年を重ねる内に「大人の心」が自分の思考の大半になって、
自分を苦しめてしまうんだ、というようなことが書いてあります。

「子供の心」つまりは、自分が「やりたい!」と思ったことをやること。
大人の心ではなく、子供の心で生きていくべきだ。というようなことが書いてあるわけですが、つまりは「こうしなければならない」という「大人の心」を否定することの大切さを書いているんじゃないかなと、僕は思うわけです。。

しかしながら、なかなかいい歳にもなって、「子供の心」に全力で向き合うのは難しいといえます。
でも、「大人の心」を否定するのは、ひょっとしたら自分が生きていく上でいいのではなぁいかなぁ、と考えたわけです。

だから、「誰かのために生きるのをやめてみた。」なんですね。

別に「人の手伝いをしない」とか、「誰かを幸せにしない」とか、そういうわけじゃなくて、
逆にそういったものであれば、「やりたい」という子供の心もあるから楽しんでやるのですが、
例えば、社会の中で、
「こうしなければならない」という暗黙のルールや、
「自己犠牲」をひたすら求められる瞬間ってあるじゃないですか?

そういうのを、全部、やーめた!ってこと。

「これやらなかったら立場が悪くなるかもしれない」みたいなことを、
思い切ってやめてみるわけです。

それでも、今までの人生で植えつけられたものがあるのか、
時たま”無駄に”「誰かのために生きてしまってる瞬間」があるんですよね。
気づいた瞬間に、「ハッ」となります。

それでも、その瞬間に「やーめた!」と思えるのは、実は最強だなぁと思ったりしてます。
そこまでやると逆に堂々としていられて、めちゃくちゃ気が楽なんですよね。
なにより、そうやって生きはじめた現時点では、結構絶好調に楽しい日々を過ごしていたりします。

「そんなことしてたら、いつかしっぺ返しがくるぞ!」とか思う人もいるかもしれないですが、

いいじゃないですか、別にホームレスになったって。

誰かのために生きてるわけじゃないんですから。

ありがとうございます! 今後ともよろしくお願いします! なんでもひとつ、願いを聞くくらいの気持ちはあります(笑)