なに達観したようなこと言ってんの?って話なんですけど。

最近、本当に、
色々と忙しかったこともあるのですが、
だからこそ、とにかく空いてる時間で

「自分の価値観に揺さぶり」

をかけています。

「自分の価値観に揺さぶり」って、
それだけ聞くと、
なんのこっちゃい?みたいな話なんですが、
つまり、

当たり前を当たり前として受け入れて、
自分を苦しめるのをやめよう!

って話。

今思えば、きっかけになったのが、
「地平線を追いかけて満員電車を降りてみた」(紀里谷和明)という本。

的確に自分の心に刺さったとかではないと思うのですが、
ただ読み終わってから、徐々に自分の心を包み込み、
なんとなく良い感じに身体が軽くなってきたような気がします。

ちょっとざっくりと本の中から一例なんですが、

「女にモテたい」という強い願望があったとして、
「なぜモテたいのか?」を紐解いていくと、
実は「女が好き」なんじゃなくて、

「周りからバカにされたくない!」

ということだったりするよね、という話です。

異性からモテたかったり、
良い服を着ていたかったり、
お金を稼ぎたかったりする根底にあるのは、
実は幸せになりたいからじゃなくて、
周りと比べてそうなった方が幸せな気がするからではないか?と。

それって、幸せになるんじゃなくて、実は結構苦しんいだけなのではないかという話。

生きるということは、
自分のしたいことをすればいいはずなのに、
ふと気づくと、
「他人から見た自分がどう見えるか?」の中を彷徨っているんですよね。

別に「全てのものはいらないよね?」とか「ミニマリスト最高!」とか、
そういう話じゃないんですよ。
そうじゃなくて、「本当に欲しいかどうか」ということを、
どこまでしっかり持っていられるか、だよなぁと。

同じように本の中に書いてあったのが、
「何になりたいか?」を聞かれることって、
「何かにならなければならない」という重荷なんですよね。
だから、「何になりたいか?」ではなく、

「どう生きたいか?」

と質問する方が、答える方にもいいよね、と。

でも、僕らはいつも「何になりたいか?」を聞いてしまうんですよ。
何かにならなければいけなくなるんです。

そりゃ生きるってしんどいよなぁと!

周りからバカにされたらしんどいとか、
お金が稼げないとかっこわるいとか、
良い服を着ていないといけないとか、
良い仕事をしていなければならないとか。

それは誰の為なんだろう。

なぜ、「誰かの為」に生きることばかり考えているんだろう。みたいな。

でもこういうのって口に出すとなかなか難しくて、
「人生のドロップアウト」だとか「負け組」だとか色々言われちゃうわけですよ。
というか、それすらまた「他人のルールの上で、他人のために生きる」ってことなんですけど。

もちろん人を傷つけることならば、
そこは繊細に考えなければならないのですが、
自分が「どう生きたいか?」を考えることって、
おそらくそんなに迷惑ってかからないんですよね。

ただ、「自分ルール」を持ってる人からすると、
見ていてとても苛立ちを与えるものだとは思うのですが。

とにもかくにも、コロナ禍って色々考えてしまうものですね。
「奇跡じゃないものを、いくつ自分に用意していられるか」
ということが問われているとも思ってますが、
それは「何かにならないといけない」わけではなくて、
あくまで、「幸せになるため」でありたいなぁと思うわけです。。

ありがとうございます! 今後ともよろしくお願いします! なんでもひとつ、願いを聞くくらいの気持ちはあります(笑)