私釈『方丈記』

『方丈記』、鴨長明の著したこの短い随筆は、全編にわたって仏教的な無常観を漂わせている。有名な書き出しは次の時には残る者のないことを、川水に生滅する空気の泡に託して口をひらかれる。

ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。

と。泡沫に象徴された無常の現れを、家並に見つけ、そして生きてきたこれまでに見てきたいくつかの大きな出来事へと具体化したのち、彼自身の来歴のうちにもこれを見出して、ついに、俗世間を離れて、方丈の庵を結ぶまでの経緯が語られる。

といっても、俗世の価値から脱却したのではない。庵を結んだあとも、用事があって彼は巷へ降りることがあった。すると、自分の姿恰好がみすぼらしく見え、恥ずかしく思ったりする。それが方丈庵に返してくると、自らの心理に生じたような現象は、世間のなかに粟立つ誰もがもちあわせていることに改めて目がとまり、俯瞰的な視座から、休みなくその心理にかかずらっている彼らに、同情の念が湧いてもくる。彼らが世間のなかでいつもそのようにあくせくと働くように、方丈を住処として無常のなかに遊ぶ鴨長明がいる。そこに聖俗をつけるようなものでもない、無我のなすままに環境へと心は容易く揺すられている。そこへ行けば、長明はそこの者としての思念を遊ばせるのである。これは彼がけっして俗世を超越したという意味で「悟りをひらいた」のではないという表れである。彼は生のあり方がひとつでないことを知って、そのあり方の「場」を往還して色を変える自分という空虚に気づくのだ。彼はある意味では生臭坊主といえるかもしれない。自分でもそう思っているような気もする。しかしそれを率直にそういうものだと明らめている節もある。こういう挿話が収められている(以下無用の難を除くため、蜂飼耳訳(光文社古典新訳文庫2018)から引く)。

もし、念仏をするのが面倒になり、読経に気持ちが向かないときは、思いのままに休み、なまける。それを禁じる人もいないし、誰かに対して恥ずかしいと思うこともない。無言の行をするわけではないが、一人で過ごしているから、何かを言ってしまうという失敗も生じない。戒律を絶対に守ろうというのではなくても、破らせる環境ではないから、破る結果になりようがない。

現代では唯物的に世界を捉える。輪郭は物理的なひとまとまりに収納され、物理的な個が生まれる。個は時間的な前後をもち、個の限界のなかで同一性を了解する。つまりヒトならヒトの諸器官が具わった者を人として、その個体を個人として、然る個人が眼前にある時とない時の別なく、そのヒトしての諸器官を具えたところの個体である者として連続し、同一性を有している、という捉え方である。

長明はそのような個人概念を積極的には採用しない。それがあるときにはそれに従い、ないときには忘れる。このような挿話がある。

 もし、夜、静かなら、窓の月を眺めてすでに亡くなった昔の友を思い出し、あたりに響く猿の声を聴いて涙する。そして、草むらの蛍を、遠くの槇の島の篝り火と見間違えたり、明け方の雨の音が木の葉に吹く風だと思ったりもする。
 山鳥がほろほろと鳴くのを聞いて、あれは父か母かと思ったり、(以下略)。その楽しみは尽きることがない。

ここでは、耳目に訴えるものがあらぬ者を彷彿することが語られているのだが、私はこれを言い切りにしたいと思う。すなわち「夜の静かに窓の月を眺めるときには友があり、猿の声のなかに友を覚える」「草むらの蛍かと後に改められる遠く槇の島の篝り火を見る」「明け方の雨の音が木の葉に吹く風であること」「父母としてほろほろと山鳥であるところの者が鳴く」といった風に。控えめな書きぶりだが、実際はこうではないかと私は思う。これらは夢幻的な感覚といえるのかもしれない。長明は狂気へと足を踏み入れたのだろうか。そうではない。

ある事象が父母ではなく山鳥の声であったり、篝り火ではなく蛍であるのは、物理現実という仮想空間に複数の人の視線が集約して、同時に得られる事実となるときに意味をもつものだ。町を離れて、山に独居する者にとって、そうした事実は必要だろうか。これは「事実」を自明的観念の座から外し、自らの思念の織りなす世界へと開かれている。ここでは父母や亡くなった友がいて、遥か槇の島の篝り火が見え、明け方の木の葉に吹く風を聞くのである。物理的同一性から離れた自在性であるがままの世界が彼を包んでいるのだ。

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