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祭好き

 田舎育ちの加減もあってか私は祭りというのがめっぽう好きで、帰省といったら盆と正月に帰省って盆踊りと獅子舞をすることと同義であった。逆にイベントのないGWにはさほど帰省する意義を見出さなかった。
 私にとって祭りとは型のなかで自由を得ることにほかならない。田舎というものは窮屈で、かの岡林信康も蜘蛛の巣に譬え「おせっかいのべたべた」と言っている。生活というもの至るところに型があり、これに嵌っているものを人という、それが田舎であってこれを外れたものは揶揄の対象になる。
 この窮屈のなかにいると私などは人目を気にして自分を表出できない人物へと造形されていくのだが、ともに型への過剰な適応もあり、型なくして身動きのとれないのも事実なのだった。
 そこに於いて祭りの空間というのはある型、つまり踊りの所作が或る一定決まっているところに自らを落とし込むことで、その型をある程度踏襲していれば許されるような空間をつくりだし、自分勝手が可能になっていくものであった。
 つまり私にとっての祭りとは型のある安心と、その中で好き好きに解釈できることに尽き、これは音楽に代表できるもののはずだ。そして実演中は誰もこれを咎めることができないのである。
 獅子舞は決まった演者があるが盆踊りはもっと観客と舞い手の境が溶け合っていて、参入したり抜けたりしながら踊りの輪が広がっていく感染的な側面が強く、そのたびに空気が変調していくものである。最近では生の歌い手も少なくなってレコード音源にたよるようになっているが、生歌の良さは流動的な場を読み合う調和空間が生まれることにあるだろう。相互に気味を見て変容していく。この型と変容の小気味良さのなかに祭り的恍惚があるのだと豪語したい。

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