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残心、写真を撮るということ

最近はカメラばかりで、文芸のほうはなおざりになっている。絵はずいぶん描かなくなった。あとは万年筆くらいだろうか。いずれは文芸も復活していきたいものではあるが、テーマのない日々である。

写真を撮るという行為は'90年代から眺めても気安くなった。デジカメが隆盛したのはゼロ年代を待つだろうと思う。私はデジカメにはあまり縁がなく、フイルムカメラばかり触っていた。デジカメといえば、仕事で作業写真を揃えるためのコンパクトカメラくらいしか触っていない。'10年代のCOOLPIXだったと思う。

あとはケータイだろうか。最近ではコンパクトカメラもいらないくらいスマホ写真は充分な働きをしてくれる。ただ状況を撮影するには今ならこれで充分も充分。

それでも一眼レフカメラを、しかもフイルムカメラを持ち歩くのは、撮影側の意図と不図の相俟った写真を撮るためだろう。まあ、率直にいえばフイルムカメラしか知らないからということではあるが。

高校のとき、私自身は美術部にいたが友人がそっちに多かった加減でよく弓道場に入り浸りしていた。ついに弓を引くことはなかったが、武道に加えていいのかよく分からないこの種目に当時魅力を覚えたものだった。

和弓は、その弦が固いため力尽くで引いてみて引けるものではないと聞く。また、道を究めた者は力に依らずこれを引くのだとも聞く。東洋思想によく見られる自然体というやつを体現したとき、自ずと弓が引かれ、その時がきて自ずと矢が放たれる。

その基本となる所作として八つの分節があり、これを射法八節という。

一、射の立ち位置を決める足踏み
二、体幹を整える胴づくり
三、的を見据えて矢を番える弓構え
四、弓を引く前動作として頭上に持ち上げる打ち起こし
五、左腕(弓を握る側)を前方に押し倒して弦を張りつめる引き分け
六、胸へと引き下ろしてさらに引き絞る
七、左手指が解かれて矢が放たれる離れ
八、射後の姿勢である残心

間違っているかもしれないけど、ざっとこういう八つの動作で射は構成されている。なかでも残心の重要性はよく聞く。すでに射の中核をなす射出が終わった時点であるにも拘わらず。

最近はこれを思い出してカメラに当てはめようとしている。写法八節だ!

位置を決め、体幹を据え、被写体を捉え、露出を決定し、ファインダーを目にあてがい、時と呼吸の揃うのを待って、シャッターを切る。あとは残心。

カメラでなぞらえてみると、残心は手ぶれとの関係になる。シャッター速度がスローになる場合など顕著に画像に反映する。残心は次へと心を干渉されない時間なのだと言って一応の回答としたい。社会生活のなかでいつも次へと急がされていて、残心をおろそかにしている。射の現在へと孤立すること。立つ鳥に気取られてこの時を失わないこと。これが残心だろう。

ただ、これは戦場で次々にくる敵の軍勢のひとりにひたすら集中するということでもない。注視ではないのだ。

自ずと現われてくる時間の肌理に自らを滑り込ませる。だから残心の時間は悠久的でありながら、同時に矢継ぎ早の場面展開にも川下りの舟のようにその肌理の通り流路に沿って次の射へと正しく展開する。残心は時間をとることでもないし、また余韻を味わうことでもなく、射へと回帰する射後の姿勢である。

フイルムカメラはこのあたりを如実に表現してくれる。いま私は日没後の1/8秒の世界を保存したいと思っている。手ぶれしない限界は一般に焦点距離分の1秒と言われるらしい。50㎜レンズなら1/50秒である。この壁を越えたい。写し取られる世界は身体の微妙な揺れと一体となってブレを起こす。これを静止するのが残心だ。

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