存在がはじまるとき

存在とは何か

何を存在と言っているか

ここにPCが存在している

「PC」が「存在」を「している」

「PC」が「存在」を「していない」

なのか、それとも

「存在」が「PC」を「している」

「存在」が「PC」を「していない」

なのか。

その場に寝転んで、想定外の「突起」にぶつかり

背中に痛みが走る。

手探りに「突起」を掴み眼前に取り出すと

ドライバーだと知れる。

ドライバーのグリップが背中を押し上げたのだ。

想定された寝転びの安寧が破られたところの「突起」によって

「突起」が出現し、触覚的に知覚され、

形状はすなわちドライバーと報せる。

さらに視覚的に知覚して明らかな「ドライバー」にする。

「存在」は「関係」によって始まる。

存在が始まるところには「関係」がある。

私がありソレがあって関係して存在が始まるのではない。

関係があって、ソレが始まり私が始まり、そこに存在が始まる。

「存在」するとは「関係」しているということ。

そして関係から私が生まれ、ソレが生まれる。

無関係なものは存在と捉えられない。

私は寝転びはしなかったのでドライバーは何者でもなく存在をしていない。

「関係」は想定の外で起き、人は恒常性へと想定し続けている。

想定が破れるとき存在が始まる。他者である。

かなり論が弱いと感じている。頭はふわふわしている。

関係には外がない。外があるとき、外は関係の中との関係で外として関係する。

関係しない外を想定できない。

外から来るとき関係はすでに外から来たものとして認識される。

云々

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?