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雑記_うつについて

 精神のバランスを崩して数年前実家に帰ってきた。診断名は発達障害とうつ病ということだった。発達障害についてはそれ以前からそんな気がしていた。ただこれがうつ病なのか、とやや実感はなかったし、実際違うような気もしている。ただ、それはうつ病への正しい理解が私にないためなのかも知れない。気分が落ち込むという感じはない。……いや、昔から気分は落ち込みやすいのは私の気質であったから、それに気づきにくいのかもしれない。
 具体的な事象については割愛して、当時の内面を簡潔に表すなら、なにもない感じ。物事と物事がある程度の強度で結合するとき、そこに意味が現われるものだが、まずそのような連関が物事が増え集まっても起きてこないために、物事は意味を創出してくることなく、景色はしらけていて、何にも感じることができなかった。
 これがうつなら、うつの主観的主徴はこれだろうと思った。巷間、うつは抑うつ状態=気の落ち込みが主徴だと思われているが、それは二次的なものだといえるだろう。それまで感じられていたものや考えていたことが自分から消えていったという感覚がまずあって、そこから自分にできることや生の楽しみかたが分からなくなってしまうことで、気分の落ち込みあるいは苛立ちが生じてくるのだ。物事を結合させる力が低下していることが根本にあるのだと。私が体験しているのがうつだとすれば主観的にはそうであり、そこには抑うつとか憂鬱といった表象として現われてはこない。
 よく、うつ病者にガンバレと言ってはいけないというのも、こういう事情によるところもあるように思う。頑張るというのは闇雲にやたらめっぽうに頑張ることではない。大抵は何かしらの目標設定があり、それに向かって頑張るのである。目標は頑張った成果を測る基準になる。これだけのことを達成したという表現を可能にするのだが、うつ病においては目標を設定すること自体が困難である。
 目標といっても外部から与えられたそれではない、仮に外部から与えられたものだったとしても、ここでいう目標には喜びが伴っているものであり、自分が何に喜ぶのかという指向性(価値観であったり、意欲を喚起するものによって自分を動かしているもの)と関係が深い。外部から与えられた目標のなかに自分の喜びが含まれないのなら、その目標は意味をなさないばかりか有害とすらいえる。岩を負/追って山を無限に往復するシーシュポスとなるからだ。

 『異邦人』(カミュ)はたびたび、周囲から価値観を強要され、ある事態に対する「正しい」応答を強要されるムルソーを描いている。彼の殺人をめぐる裁判でたびたびこの事態に遭遇する。裁判の争点のひとつは、ムルソーが「ママンの埋葬の日に「感動しなかった」こと」であった。それは彼が起こした事件と直接の関係をもたない事項だったが、判事側そして弁護士も含めて裁判に関わる者はムルソーを除いて、ムルソーに殺人を犯す人格的非道があったのかという問題に興味があるのだった。
 新潮文庫第41刷版の73ページ最後の段落から描かれるキリストを信じるか否かという押し問答は、上に書いた外部から与えられた喜びや価値を見出せない目標その強要に関する好例といえる。

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