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変性的生⸺中澤ふくみ作品を巡る思念

 視線のない顕微鏡のなかで、繊毛を戦慄かすボルティセラにも似て、墨の縁取りの無為な運動体が、和紙のなかをうごいている。墨でドローイングされた輪郭をもつ虫体は一枚ごとに、器官を移動させる。⸺中澤ふくみの奇妙な人々は、自らのからだとの対話にいそしむ姿を、つかの間私たちに鑑賞される。文字通り「垣間見る」といった風で、鑑賞は短くおわるが、その対話的運動は彼らの生きるかぎり、前にも後ろにも営まれているだろう永続性があるのは、彼らが視線に晒されていないからだ。

 視線とは何なのか。彼らにそれが「ない」と私たちが感ずるのは、私たちの生活につねにそれが「ある」と感ぜられているゆえに、初めて「なさ」に違和感を覚えているのだ。その有無によって、私たちは対象をどうしてしまうのか、私たちはどうされてしまうのか。どうかしていないならこの違和感を⸺つまり不安を懐きはしないはずだ。
 自らがむける視線について無頓着な傾向をもつ私たちの「見る」という行為は、生活にあって「見られている」という意識と対応していて、主体と対象とのあいだに視線を送り合う契約が暗黙のうちに成立していると考えているために無頓着でいられるのだ。では、成立していない場合を想定してみると、私たちの心理に「背徳」なる抵抗が生じてくるのが了解できるだろう。
 自分がそそぐ視線には無頓着なのに、他者からそそがれる視線には敏感な私たちだ。
 他者の視線は好悪両義的である。アタッチメント概念によって示されているのは、幼児にとって庇護者の存在、その視線を受けることは、場の安全とつながっている。殊更に視線と視線が結ぶということはなくとも、ただ「視線をそそがれている」という認知が、自らが行動することに安心を覚え、冒険することもできるという。
 やがて人はその庇護者の視線を、認知のうえで拡げてゆく。ついに庇護者の実視線のそとへと踏み出しても、この認知によって観念的な視線を受け、自らに行動をゆるせるというのだ。
 これは主体の幸福において、好ましい視線のあり方だ。しかし、一方で視線は呪縛の性質をももつ。
 アタッチメント概念で説明するなら、やがて架空の視線の獲得によって行動範囲の拡張を志向する主体にとり、庇護者の実視線は規制的でありうる。実視線があらゆる行為に禁圧を加え、単一的な正義をメッセージにもつとき、その視線は主体の行為の恐怖政治家として存在しはじめる。そのような主体のうちには監督者の視線が内面化し、その視線によって自らを恥辱な行為者として規定することとなって、性格は内向化する。
 視線からの脱出を試みて、反抗すなわち権力の奪還へと行動するか、内的志向を否定して馴化ないし隷従のために無我であろうとするか、視線には耐えながら心的表現空間を秘匿的にもつか、視線から物理的に距離を隔てるか、そのような方途を探られるようになる。
 私はあきらかに後者であり、それゆえ自らの存在に希薄さを感じてきた。現実は視線のつくる膜一枚隔てたむこうにあると感ぜられ、いつも内面⸺稚拙で恥辱なと規定された内面は仕舞いつづけられてきた。絵を描き、小説を書くようになったりしたのは、内的志向を秘密のうちに発露する方法だったのである。だから「生きて働く心理学である」と書いた朔太郎や「ほとんど全世界を凍りつかせてしまうかもしれないほんとのことを書くという行為によって発言する」と書いた隆明の詩の定義は、詩に限らないあらゆる表現に妥当するとして私の記憶につよく焼きついてもいるのだ。
 視線⸺他者の視線が、私には恐ろしい。私を成形し、鎧をまとわせて内面を外気に触れさせず窒息、腐敗に追い込む。つまり「よい子」になり、自己をその生涯から疎外する。視線は鎧の下にある私の素顔を見ないので、腐臭を嫌い、滲んだ腐肉はぬぐい去られていく。鎧? 棺かもしれない。死人に口はないのだから他者の視線はよく通り、司令にかなしく応えるばかりの人簫。棺のなかの私は、現実にいてはいけない「適切な世界の適切ならざる私」(文月悠光)なのだ。
 話がそれていった。視線は権力として行為を取り締まる。型に嵌めるといってもよい。
 文化的生物である人類は、その文化ごとにしぐさの型を有する。水瓶の運搬は棹に吊るのか胸元に抱えるのか頭に載せるのかといった選択があり、文化的に継承された人体との適合のバリエーションがある。その文化圏内で、固有の方法は自明的であり、別の方法について考える機会にはまず遭遇しない。
 また、近代社会はひとの標準をさだめ、それに倣った街を構築する。原一男監督の『さようならCP』は急進的脳性まひ者団体「青い芝」を被写体にとったドキュメンタリーだが、当作品によって炙り出されるのはアスファルトの硬さであり、それは標準的人間が彼らを同情的に侮る視線と軌を一にしていることを示した。
 中澤ふくみ作品の人々は、肉体に「標準」をさだめない。彼らは自らの肉体を可能な方向へとうごくばかりの存在だ。動作にどんな意味があるのか、そんなものもないのか、ただ動きつづけている。なにかを達成しようとして何度も失敗しているように見ることもできる。そのとき彼らは葛藤的にみえるが、それも見る者が彼らを擬人化し(つまり自己化して)共感しようとした結果の意味付けであって、彼らであるよりそれは私たちの葛藤でばかりあった。
 型への代入可能性は、私たちに初めてそれを安心して見る余裕をあたえる。彼らはいつも私たちに「何かに似ている」と思わせはするが、それは彼らのあずかり知らぬ何かなのに違いない。彼らはただある体を無為に動かしているだけだ。無為の運動に目的はなく、それゆえにまた時間もない。彼らは飽きるほどその動きをし続けているだろうし、仮に別の動きに移行しても、そこに「別の」という意識もないまま運動が遷移したのに過ぎない。

 中澤作品は映像のほかに立体作品が伴う。アニメーションを成した和紙をすべて貼り合わせたものである。
 ある展示では、歴史建築の一室をとり、薄暗がりのなかで展示されていた。

見張り番室であるそこは、廊下から90cmほど高くなっていて、這い上がるように入っていくのだが、廊下から覗くと、机上に立ち上がるふたつの和紙作品が何とも知れず見えている。この部屋は「入る」ことに意識的でなくはいられない。蹴上げた足で畳に踏み入るこの空間も作品に渾然と融和して、現実から乖離した時間に入る。冥府へ立ち入るイザナギのように、あるいはやがて再生するアマテラスのように、桶へと入定する即身仏のように。そこに先客としての作品が即身仏として沈黙している。

鏡に貼った作品と作者の向き合いの言葉が奥に配され、それを読むうちにも我が身がちらちらする。揺れているこの体の背後に、四角い明るい空間を読み取って振り返ると、作品の生前の姿が煌々と映写されている。

 宿毛林邸の体験はこのようであった。そこは死後でも、出生前でもあった。貼り固められた生身の和紙は死体をむき出しに、生前の映像のとなりにあった。「弔い」だろうか。しかし、胎内かもしれない。鏡の反転がものを言う。この貼り固められて厚みをもつ和紙の積層体は、内部に墨で描かれた皺を隠している。わずかに表から覗く一、二枚下の層がそれを教え、映像という隔絶された時間の中に封じられた生前が、視線を跳ね返しながら自らは光り表示するという「反抗」として現れてくる。死体はここにあり、映像もある。視線に対し無防備なこのふたつからなる作品は、頑なに鑑賞者の干渉を跳ね返している。
 作品を起立させている器具は、治具というらしい。加工しやすいように加工物を固定する器具だそうな。

 やわらかい曲線を描いて和紙のおもてに優しく沿うそれは、描かれた人の延長で立体をなし、平面から空間につないで私たちとの地続きにする媒介者である。治具から作品へ、また治具へと気流をおこす通気口となる。ああ、生身がある。もうここが墓穴でも、子宮でもいい。ふたたび明るみに出るとき、まったく同一の別な存在になって生まれなおす。監視室はこの中澤ふくみに占拠されたあいだ、門を睨みつける一方的な格子窓も閉鎖され、内へと変性する空間であった。戸口を潜るとき私たちのからだも住吉三神の和紙を振りまいていたかもしれない。

 その後に見たのは「座譜」なる謄写版で描かれた絵と、簡潔な座り方を示す文を添えた連作である。

両方の腕の肘から飛び出た一本の棒を、湾曲した壁に沿わせ(以下略)

座譜.21より

 「肘から飛び出た一本の棒」、指示書のとおりにそれへ収めるからだのない不具な我々が立ち現れる、存在しない器官が当然のように挿入される。その唐突性は我々の器官の単一性を秘かに、結果的に批判する。単一性、標準化。この忌むべきもの。脳性まひ者の這いつくばって健常者を睨みあげる、横断歩道での一幕を思い出す。座譜≒椅子は作品に現れた彼らが、羽を折りたたむ装置であり、彼らはふたりとおらず、座譜はつねに固有の座者に適合している。そして私たちは、あのからだが座るのだろうと想像するばかりで、彼らが座るときを見ることはなく、座ることはないのかもしれない。「彼ら」とひと括りに名指すこともできない。
 翻って私たちの世界にある、椅子なる椅子は多かれ少なかれ、標準化された人体に適合し標準化された同一性を連坦している。全体主義の見えなさを椅子に代表されるプロパガンダがこのとき初めて片鱗を見せるのである。

 最後に、この作家の手になる官能的な描線についても触れておく。「どれも同じ流木」という連作は、タイトルの通り流木だが、連作のうちに次第に線と線とが離接していく。鉛筆の柔らかさが示す微妙な強弱をもつ線によって縁取られ、私たちへとくる流木は、一瞥、悶える人体のようでもある。それは作家のもつ描線の艶かしさによってもいるのだろう。直にこの作家の作品を見ることがあれば目を近づけてほしい。過去に例を数えるならベルメールだろうか、有機的、脈のある線があることに気づくはずだ。そこには作者の強い視線を感じる。すべての視線を跳ね返し、固有の表出をしている中澤ふくみの人々をあぶり出す、唯一の視線だ。私たち鑑賞者はそこに踏み込めず、絶えず彼らを意味づけることによって自己の意味構成に回収を図る。が、作家と対話すると意味へとよじ登るこちらの意図はすべて解かれる。凌駕しようとした自らの言語は、作品に届いたことなどなく、中空でほどけ、離散して、無力な自己を発見するとともに、意味づけられない作品がふたたび立ち上がってくる。


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