父を看取った

父の希望を叶えるために、お世話になってきた病院から自宅に連れて帰ってきた。

父 70歳
肝臓癌による胆管閉塞。および黄疸。
治療半ばで2度目の食道静脈瘤破裂による吐血。
肝不全となる。

昔から「俺が死ぬ時は延命はしなくていいからな」と何度も聞かされてきた。

なんなら、死んだ後に体を洗ったり、
豪華な花を棺にも入れなくていいと。

理由は、「死んでからでは意味がない」だった。

今が1番大切だと常に言っていて、

花を送りたいなら今送れ。

手を繋ぐなら今繋げ。

感謝は今しろ。

そう言って母の手を取り
周りの人を大切にする人だ。

最後は畳の上で

父は自宅に帰って畳の上で、
母の横で死にたいと言った。

いよいよお腹の水も増えてきて、次第に胃の当たりが痛むと言うようになってきた。

移動するならこのタイミングしかないと担当医が教えてくれ、大急ぎで地域連携室を介して在宅看護師と往診医を見つけてくれた。

我が家はもともと母のためにバリアフリーで、介助や介護に必要な物が揃っているから、あとは、父を寝たまま搬送するための民間の救急車の手配をするのみだった。

普段から使っていた介護ベットをそのままお座敷に入れ、防水シーツや、オムツなどを用意した。

うちに帰るまでが遠足

全ての連携が取れて帰るまで2日かかり、その間に父は急激に弱った。

水を飲むのも胃に染みるときがあるらしい。
だけど、胃薬と胃痛止めの点滴をすれば、かき氷を欲しがり、ヨーグルトとプリンを食べた。

いよいよ帰宅の日。
お世話になってきた先生、看護師さん一同に挨拶をし、遠足気分だったらしい。

とはいえ、とても体も辛く、痛みもあるので、ルンルンで帰ってくる訳には行かなかったけれど。

家に到着し、救急隊員さんや、在宅看護師さん達で身の回りを整えてくれる間に、病院から付き添っていた妹を労うと、一気に緊張が解けたらしく、途端にいつもクールな妹が泣きじゃくった。

「よかった、、お父さん、ちゃんと帰ってこれた」

何十年ぶりかに妹の頭を撫で、ありがとうを伝えた。

そんな私たちの気持ちも知らず、父は家に帰って来れてテンションが爆上がり。

「きつくなかった?」と尋ねると

「面白かったぜー」と絶え絶えながらも答える。


在宅看護

父の帰宅を聞いて、父の親戚、近しい友人が続々会いに来てくれて、父を励まし、安堵してくれた。

次第に疲れてウトウトしながらも人が来れば会話をし、「はぁ、、家がよかー」とまた眠った。

浅い眠りのまま、起きてるのか寝ているのか分からないと言った。

寝ていると思っていても、話はきちんと聞いていて大きめに尋ねるときちんと答えてくれていた。

私たちも病院の時から寝ずに交代で付き添っていたし、体位変換も2時間おきにおこなっていた。

往診医が来てくれたのは夕方で、その頃にはまた、痛みが増して、唸りながら耐えてくれていた。

弱音を吐かない父だけど、もう、さすがに耐えがたあえのか「あいたたた…」とうわ言を繰り返す。

寝ている時にもずっと「あぉー」「うーぅー」と常に唸るようになっていた。

辛そうな父を見ることが私たち家族にもとても辛かった。

ターミナルケアについて本人の意向を確認する。

とにかく、痛みを取り除いて欲しいと言った。

どこかが局所的に痛いのではなく、何日も食べられす、寝たままで、身の置き所がなく、腹水がスイカ3個まとめた大きさほどになっていて、あちこち内臓を圧迫していた。

もうきちんと眠れてもいなかった。

「死ぬともざっとなかとねぇ」
(死ぬのも簡単なことではないんだなぁ)

と、意識がある時に言っていた。


医療モルヒネ

往診医は、腹水をある程度抜いて、胃痛止めと、体のだるさなどを取り除くステロイドの錠剤などを勧めてくれたけど、父は、もう、やり残したことは無いらしく、「モルヒネの点滴で静かにいきたい」と言った。

伝えたい言葉や、会いたい人、過ごしたい場所、
全部望みは叶って、あとはこの苦しさから解放されたいとの事だった。

苦しむことに飽きたらしい。

モルヒネは、末期の人に使うらしいけれど、痛みには有効で、父の場合の痛みとは少し違うらしかったけれど、本人がそれでいいんだと言った。

どちらにせよ、寿命は後わずか。
なんなら延長タイムに入っている。

先生も家族も、本人の希望を叶えるべく承諾した。

腹水を抜く間に、薬剤師さんが医療モルヒネを持ってきてくれて、使用方法などを確認した。


15分ぐらいで2リットル程の腹水が抜けた。

「あー…楽になった…」

としばらく会話をしていて、次第に目を閉じる。

薬が効き始めてきたらしい。

しばらく眠らせようと、妹が付き添っている間に、
母の介助や、食事の支度をしていると

「ビールもってこいって言ってる」

と妹と、妹の旦那が困った、怒った、悲しい顔でやってきた

父を見に行くと、ベットを起こし、バッチリ目覚めていて、「少しでいいからビールが飲みたい」「もう、よかけん、もってこい」という。

母を見れば泣きそうになっていて、どうする?と尋ねると

「お父さんは覚悟決めなはったけん、ついでやって…」
と言う。



13年振りのお酒

肝臓癌になってから13年、大好きなお酒を絶っていた父。

大好きなものを13年も絶つ心の強さ。
改めて尊敬する。

時折、死んでから私が後悔したくなくて、ごめんねと思いながら9:1にした、ほぼお酒風味のお湯は飲ませてあげていた。

それでも、にこにこありがとうと言ってくれた。

でも、もう、くれと言うのなら今なんだろな、と、
キンキンに冷やしていた瓶ビールを小さなコップの3分の1程度に注ぎ手渡すと、私たちにも飲めという。

もともとお酒を飲まない私も、生まれて初めて父と乾杯をした。

「ほんならね。」(じゃあね)と言って
ぎゅーーーっと飲み干すと

「はぁーーーっ、うまかぁーーーーーーー」
と深いため息をつく。

それを見てみんな泣き笑いになった。

13年振りに飲んだお酒はさぞかし美味しかろう。
よかったね、の気持ちと、あぁ、これが最後なんだな、の気持ちで泣くと笑うが同時に湧き出す。

そして、また、父は昏昏と眠った。.

それから、意識が戻ることは無かった。









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