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帰去来


子供の頃

毎週土曜日、学校が終わると習字を習っていた。

自宅から2km離れた先生の家まで

自転車の荷台に道具を括りつけて通った。


道中、軽トラに乗った 顔見知りの漁師のおじちゃんや

船着場で作業をするおばちゃん達に

「えらかねー」「用心して行やんよー」

励まされ、褒められ、少し誇らしい気分で

ペダルの重たい堤防沿いの坂道や橋を超えた。

その橋は福岡県南部にある矢部川から分岐し

有明海へと流れる沖の端川にかかる小さな橋だった。


行きは並々と満ちていた海が

帰る頃には夕日に照らされ

テラテラと艶のある潟があらわとなっていた。

遠目でもわかる程たくさんの

小さなカニやムツゴロウが空気を吸ったり追いかけっこをしていた。

私は、いつも、その景色を見ると急激に寂しくなり

一刻も早く帰って、夕餉の支度をしているであろう

母の腰にしがみつきたくなった。

ペダルを漕ぐ足に力が入る。

荷台の道具がさらにカタカタと鳴る。

その音はまるで、「早く帰れ」と急かしているようで

への字口になりながらも、ぐっと堪え

赤とオレンジの光る迷彩に向かって

力いっぱいにペダルを漕いだ。



今日、用があって、何年ぶりかに

子供の頃に住んでいたその町に行った。

増えたものと、消えたものが混ざり合いながらも

寧静の漁村の奥に落ちていくあの夕日と

いくつもの生命を宿す神秘の潟は

変わらずとても美しかった。

車を路肩に停め、しばらく眺めた。

ふと、北原白秋の帰去来が浮かぶ。

山門は我が産土  雲騰る南風のまほら

飛ばまし、今一度


戀ほしよ潮の落差

火照 沁む夕日の潟

盲ふるに、早やもこの眼

見ざらむ また葦かび

籠飼や水かげろふ

かの空や櫨のたむろ

待つらむぞ今一度

故郷やそのかの子ら

皆老いて遠きに、何ぞ寄る童ごころ。


今、同じ景色を見ている。

「火照 沁む 夕日の潟」

この誰も知らない小さくも美しい町に生まれてきた事に

「ありがとう」と思った。


#旅する日本語

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