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人が宗教を信じる理由

南直哉さんの「老師と少年」を読みました。
以前書店で「超越と実存」を立ち読みして以来、ずっと読みたかったのですが、何となく時機がやって来ず、今日ついに購入・読了しました。
(「超越と実存」は難しかったので、もう少し時機が熟してから読もうと思っています)

さて、この本は、
自分とは何か・なぜ生きるのか
という悩みを抱えた少年と、
小屋に住む老師の対話形式で書かれています。

老師も若い頃に悩み、聖者や隠者に会いに行きました。
若かりし頃の老師は聖者に聞きました。
「人はなぜ死ぬのか。私とは何か」
聖者は言います。
神はお前に教えていた。しかしお前は忘れてしまった。お前は生まれてくる前、神の子だった。
理解できまい。これは理解することではない。信じるのだ。
理解できないから受け容れられない。神はそれを罰する。
今お前か死の意味を知らず、真の自己を知らないのは、その罰ゆえなのだ。
赦しを請え!

それを聞いて、若かりし頃の老師は、聖者の前を去りました。
老師は言います。
「理解したいと思うことが、傲慢で罰せられるような罪だと断言することの方が、そのときの私には、もっと傲慢に思えたのだ」

少年が聞きます。
「信じるとは何ですか、理解するとは何ですか」
老師は答えました。
「理解できないことが許せないとき、人は信じる。信じていることを忘れたとき、人は理解する」

さて。
私の母はエホバの証人という宗教を信じています。
私も生まれたときからそれで育てられて、大人になって辞めました。

私は生まれたときから、それが正しいとして教えられてきましたが、なぜ母は、人生の途中からエホバの証人に傾倒していったのだろう、と考えることがあります。

これを考え続けると、きっといつか、心から母を許せるような気がするからです。
(私の育てられ方は、心理的・身体的虐待を受けたと言えるものだと思っています)

母の父は、単身赴任でしたが、帰ってくると超亭主関白だったそうです。
母の母、つまり私の祖母は、放任といいますか、「ダメ」という線引きをしない人で、何でも「しょうがないなぁ」で済ます人です。

しかし子どもは、ある程度の線引きを欲しています。アイロンを触れば熱いから「ダメ」というのは、子どもを守るための線引きです。
二歳頃始まるトイレットトレーニングは、社会で生きていくための線引きです。
ひいては、思春期に例えば朝帰りをして怒られるのも「線引き」ではないでしょうか?
この線引きによって、子どもは「強くて、ダメなことはきちんと禁じてくれる親」に頼りがいを感じ、安心感を覚えます。

では、親がきちんと禁じることが出来なかったら?
子どもは不安になります。自分がどこまででも広がっていくような、収拾がつかなくなるような、枠の無さに不安になります。

推測ですが、母はごく幼い頃の最低限の線引き以降、「ダメ」を言われずに育っていると思われます。
それは、「強く、禁じることで守ってくれる親」の不在とも重なることでしょう。
加えて、圧倒的に強かった祖父は、実際に単身赴任で不在でした。

ここに、母の「強い、禁じてくれることで守ってくれる親」を求める土壌があるように思います。

そう。エホバです。
エホバは、天におられるお父様です。
いつも見守っていて、人間が間違えたことをすれば激しく怒ります。
エホバの言うとおり、その枠の中にいれば、必ず幸せにする、とエホバは約束しています。

その姿は、母の求めていた親像に、ぴったりはまったことでしょう。

母には、自分の親がなぜ禁じてくれないのか、「理解できないことが許せ」なかったのでしょう。
だから彼女は信じた。

母のことを、気の毒な人だとは思います。
母の弟も、大人になってから鬱になって失業していますから、彼女の家庭には、精神的な病理を引き起こすものが内在していたのでしょう。

だけど、私はその病理を断ち切ろうと思います。
もはや私は信じることができない。
だから私は、理解しようと考え続ける。

これから、どんな人生を歩めるのか、楽しみです。

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