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Twitter感想ログ_2019/11-2020/03

2019/11

情熱のフラミンゴ
『オー・プラネテス~汝はどこにいる~』

美容整形アプリ「プラネテス」が提供する豪華客船の船旅で過去に犯した罪と傷に直面する男の物語。おそらくネタバレしない方がいい案件だが、反復される音楽のなかで無意識の加害が浮上してくる展開にかなりヤラレタ。

色々と思うことはあるが人は自らの加害性に直面することを避ける動物だから、本作のように無意識の夢へと誘い込む仕掛けで、無かったことにしているはずの加害性へと導く構造はとても演劇的だし、劇の反復があり得たかもしれない和解と赦しの「想起/練習」になりうることは広く知られていいことだな。

鳥公園「終わりにする一人と一人が丘」

ドラマ構造はほぼ解体され(あるけど)、断片的な想念が俳優の演技を通じてポツポツ浮かび上がる感触。私が私であることの意識を生み出す身体の輪郭をぴっちりした「第二の皮膚」で表す衣装は秀逸だが本質的にモノローグな気もする。

ハチス企画『まさに世界の終わり』
(ジャン=リュック・ラガルス)

対話の不能性が強く意識され、ドラッキーな多幸感で日常の悲惨を埋め合わせることにも疲れ果て、とことんまで何かに追い詰められている徴候を感じる。生々しく余裕がない…。最近、目にするものがたまたまそうなのかもしれないが…。

屋根裏ハイツ『私有地』

コンビニ、墓、ネットカフェ、痴呆、介護、葬式、養護施設、様々な場所と関係性のなかで何者であるかを変化させていく弱い身体の群像劇。その〈弱度〉は匿名的なものから匿名性を消去せず、その身体の宙吊りにされた不安を顕在化させるための方法のような気もする。

人の味『閉じこもっている!!』

プライベイト(@tokyoprivate)初の演劇上演というので気になってきてみたら、繰り返される労働のリズムで言葉と身体が分離してしまったある男を生態描写する、非常に「妙」な一人芝居だった。ドラマでもコントでもセミナーでもない…島村吉人の惚けた演技が秀逸。

それとプライベイト(@tokyoprivate )は演劇上演スペースとしても非常に面白い空間であることがよくわかった。朽ちた畳、破れた障子、三階への階段に後付けされたトマソン的風情のあるドア。そう、このスペースには三階もあるのです。旧加藤家住宅とコラボイベントとかやったらいいんじゃないかな(笑)

2020/02

福井裕孝『インテリア』

  イメージを立ち上げない「モノ」からなる風景の演劇として興味深く観れるし、注目されるべき変なことを普通にやってる上演だと思う。俳優の行為から「モノ」の自立的な作動を体現できているかどうかはスレスレで、やっぱり人よりもルンバ的な自動掃除機の動きを注視してしまう。じゃあルンバでいいんじゃね、となるのかどうか。
  でも、アフタートークで中村大地さんが言ってたようにフィクションのレベルでは「部屋」の風景であるはずなのに、現実にはモノが散乱しているSCOOLの空間であるというネジレがポイントなのかも。とにかく意識の外にある様々なノイズに耳を傾けるように、モノをあらためて「観取」する80分。
  認知できないけど知覚可能な「モノ」性に僕が関心を向けているだけかもしれないが、「モノ」と「集まり」から演劇美学を再編成する傾向があるように見えてる。所詮は、観客の美的趣味/フェティッシュを満足させるだけとも言えるけど、代理=表象への懐疑が完全にデフォルトになったあとで、複数の立場から読み込まれうる物質性を起点にして、演劇に何ができるかを問うているとも言える。
  でも、そういう上演に「参加」する観客の立場性ーこの場合だとコーラのペットボトルをいかに使用するかとかーが反省的に問われることがない、だからあんまり驚きが生じるということでもない(まさかコーラがこんなことに!)。微細な変化の推移に身を委ねることになるわけで、それはそれで気持ちいいのだけど。でも、先に言った「ネジレ」ゆえに空間酔いしたらしい中村さんの見方がありうるから、わたしが鈍いだけかもしれない。中村さんの感覚にすごく好感を持つ。俳優二人のぬらりひょんな感じにも。

#形

  平倉圭さんと田中純さんの講義だったが、非常に刺激的だった。荒川修作+マドリン・ギンズ『FOR EXAMPLE』とデヴィット・ボーイ『Scary Monsters (And Super Creeps) 』の分析を通じて時間のうちで見出されるモノとしての「かたち」が「視覚」と「聴覚」の両面から浮き彫りになる。
  絵画、映画、建築物、歌声はそれぞれ異なる体験だが、それらの現象のうちに見出されてしまう形ー反復の形態/形式の質ーがふつうに理解される意味の秩序と重なり、意味から外れる感性的/断片的な知覚の布置をつくる。それが鑑賞者/聴者とのあいだで、一種の暗号的な抵抗材のように作用して、意味の世界を歪ませるというか、そこに「私」の身体的経験と絡まり合った複数的なー見出されたー意味感覚の質を生み出していく。
  絵画、建築物のほうは自分からは動かないけど、映画、歌声はそれ自体で動く。つまり時間的に変化する。だけど、平倉さんの講座だと、絵画、建築物も時間的に変化する。

チェルフィッチュ「消しゴム森」

  見れてよかった。「消しゴム山」で舞台を構成していた複数のエピソードや要素(洗濯機が壊れる、ものたちに時間について説教する、モノを再配置する等)が「演劇」「映像演劇」「彫刻演劇」「モノたちの演劇」等と名付けられた複数の展示会場で再構成される。
  オブジェに白い塗料をかける、円筒形に整形された粘土を棚に収める、散乱したモノを無目的に使用する(モノボケ?)等、いくつかのパフォーマンスユニットが用意され、ほぼループするような形で上演されえう。直感だが、モノ、映像、人を「気配の痕跡」において交流/凝集する実践だったように見える。
  人がモノに見えるというのは、おそらく反復の効果としてあったのではないだろうか。反復されるとパフォーマンスの瞬時性/束の間性が薄れて、モノのような時間を超越した実在性を獲得するといったような。ある意味で、「形」講義とも関係する?
  ただ、パフォーマンスの(ほぼ)ループ構造は観客/鑑賞者に見出される反復ではない。だからこの試みの焦点は「人がモノのようだ」にはないと思える。むしろ、岡田利規はずっと痕跡的な気配(現実と夢、虚構と実在の区別を無化するような)を現出させる実践を初期作品から一貫してやっていると思える。
  だから、モノを俳優が使用する/関係すると、モノは「誰かが使った中古品」になるから、モノに内在する「何度も使用されたかもしれない」「これからも複数の使われ方に開かれている」反復可能性が露出して、展示会場に最初に足を踏み入れたときとは、鑑賞者のモノとの関わり方が変化してくるよねと。
  国際化する自身の立ち位置に対する、ある種の反動のようにも思える。どうだろうか。

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2020/03

新聞家「フードコートの記録映像」

あるいは、移りゆくまちの気配と行き交う人々の記録。上演そのものは15分足らずで終わるものだから、30分ほどのドキュメントの半分くらいは後者を捉えたものになる。加えて、テクストを演じている俳優は、ほとんど足しか映らない。つまり撮り損じの映像。

上演が複数の人たちのバラバラな時間の集まりであることを、さらにバラバラな視点(カメラアイ)の集まりであることを映像的に表現したドキュメンタリーだったなと思う。あくまでも、ドラマの時間を作りあげることを拒否する姿勢は、そういえば、「ものかたりのまえとあと」でもそうだったな。

新聞家『保清』

  このささやかともいえる営みが、緊急事態宣言が検討されるような異常な状況で観れたことはとても良かった。「保清」は不安や恐怖を綺麗さっぱり消し去る潔癖さではなく、崩落しそうな日常を保つための努力なのだと思えた。人と人が集まるための清潔さ、を仮止めするためのテクスト。
  恐怖に駆られて不安分子の完璧な排除を求めるべきではない。排除ではなく「保清」すること。危機的に見える時には、すべてを一撃のもとに解決する独裁者が魅力的に見える。しかし、制度/日常の破壊衝動に身を委ね決断のパフォーマンスに拍手喝采を送るのではなく、日々を適切に保つ努力を重ねたい。
  不安に駆られたとき、その適切さを思考するために設えられた場所が劇場と呼ばれるのではないか。手を洗う、アルコールで消毒する、テクストの言葉を考える。そうしたささやかな行為の積み重ねを諦めないことで、劇場は適切に閉鎖されない。そして適切さを保つためには集まり思考することが必要なのだ。
  確かに親密さは呪いだ。危機に身を晒すことだ。近づくほどに感染リスクは高まる。あの「LOVERS」は、どんなに近づいてもあなたに触れられない断絶の痛みを示していた。しかしだからこそ、抱きしめる身振りは永遠に反復されねばならない。それが恋人の意味なのだ。親密であるための清潔さ。保清。

Aokidのストリートライブ&ビール

に行ってきた。もう15回目くらいみたい

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ゆうめい『弟兄』

  始めて見る。いじめの実体験をもとにした告発劇。和解を難しくする加害と被害の非対称性が浮き彫りになる巧みな作劇。ただ、劇場で演じられる限り「事実」ではなくて事実に見える表現であることには注意したい。負の感情を原動力にした「告発」に集団で拍手喝采する構図は危ない。
  『巛』は自殺した友人の代わりにタルパ(空想の友人)が現れる話だった。自転車で飛び立つラストシーンにたいして批判的な気持ちがあったけど、ありえなかった未来だから描かずにはいられない切実さがあったのかなと想像。『弟兄』に自殺した「弟」の視点が入ってたら良かった気もする。
  あるいはだからこそ、劇が一夜の夢に過ぎないからこそ再再演に際して告発ではなく対話を始めることはできないだろうか。事実をもとにした叙事的形式を採用するのであれば観客が快感に思考を麻痺させて拍手喝采する方向を取らないことも十分に可能だと思う。そうしたら違う作品になるのかもしれないが。

スペースノットブランク『ウエア』

まったく意味がわからない笑。メグハギとはいったい誰なのか。RTの「Vtuber」には納得感というか、カタルシスの岸辺じゃないけど、そういうバグったシステムをリテラルに再現しているようにも見える。内容的には郊外のアウトローな恋愛話っぽいけど。

カオス*ラウンジ「3月の壁 さいのかわら」展

(関優花、宏美、藤城嘘、宮下サトシ、弓指寛治、Houxo Que)。輪切りの丸太に「昨日、今日、明日のわたしが忘れていることを覚えられない」といった言葉が刻まれていた。ディスプレイは「壁」に人が行き着こうとするほど踏まれ壊れる。忘却の罪責感が滲む。しかし「3月の壁」では海坊主がパックリと割れて、盆踊りのイメージが業火に焼かれて燃え上がるように現れる。それはどこか朗らかで楽しげですらある。

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「嘔吐学」(WALLA)

行ってみた。笹野井ももさんと村松大毅さんの展示。半分に区切られ近づけない展示スペースは展示のジオラマを見ているよう。トリックアート的な壁の錯誤感と焦点の定まらない分身による目眩の感覚が印象深い。道端から覗くと自分の身体も焦点を外して幽霊のように分裂する。

笹野井ももさんの彫像。雄雌的な肉体の性が削ぎ落とされた中性的なたたずまいがわたしの好み。杭は胸に打たれているのではなく、飛び出しているのだとか。

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「杖をつくる」最終成果発表会

(三谷蒔、下田彦太、カキヤフミオ、朝比奈竜生、清水恵み、たくみちゃん、武本拓也)。個人で使うこともできるが、人と共有することもできる。そんな表現の方法論を「杖」と名指して各自の杖を作るためのWS。埒外の表現のためにとても貴重な場が出来つつあると思う。

回遊形式で発表された各自のパフォーマンスはトマトを潰す行為、心地よさ/悪さの探索、周恩来の記念碑にまつわる自伝的な語り、コミュニケーション不全の自己呈示、公園の水場を使った滝行(?)など私的な情動、問題、歴史を扱いながらも押し付けがましさがまるでない。共有物として開かれる清々しさ。

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川口智子演出『4.48 PSYCHOSIS』
(サラ・ケイン)

傑作!少なくとも本作は間違いなく川口智子氏の代表作になる。パンクオペラの形式を与えられることで初めてサラケインの戯曲が「サラケイン」という固有名から解放された。これこそ「これは演劇ではない」だ。然るべき人に届いてほしい。見に行くべき!

立本夏山『ギーターンジャリ』
(ラビンドラナート・タゴール)

驚異の12ヶ月連続一人芝居最終回。万雷の拍手のなか終演しました。ずっとトークゲストとして出演させて頂いてましたが、地下室の手記から始まって、孤独のうちの生命賛歌を歌い踊るラストを飾るのにふさわしい上演だったと思います。再演希望。皆さんにも見てほしい。

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