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「パフォーマンス・アート」というあいまいな吹き溜まりに寄せて――「STILLLIVE: CONTACT CONTRADICTION」とコロナ渦における身体の試行/思考

[1-1]概要――「STILLLIVE」の背景をなす諸条件

 12月13日(日)、13名のアーティストによる「STILLLIVE: CONTACT CONTRADICTION」(※1)というパフォーマンス・イベントを、ゲーテ・インスティトゥート東京で見た。わたしが体験したそれを書き留めておきたい。最初に「STILLLIVE」の概要と、極めて基礎的ではあるが、本企画の背景を成していると考えられるメディア的・歴史的な諸条件について簡単に概説しておこう。

 「STILLLIVE」は、アーティストの小林勇輝(※2)が2019年に設立した「パフォーマンスアートを主体としたプラットフォーム」である。たんに作品の上演を目的としているわけではない。クローズドのワークショップ、ディスカッション、トークセッションとプレゼンテーションを合わせた、パフォーマンスアートの新しい創作環境を整備することが目指されている(※3)
 「STILLLIVE」の名称は、2016年に「ダダ100周年フェスティバル」でおこなわれた「Emotion in Motion」 というパフォーマンスを契機に小林勇輝らが設立したコレクティブに由来しているという(※4)
 当時公開されたトレーラーでは、「STILLLIVE」が「STILL」と「lll」と「LIVE」からなる造語であり、「過ぎ去り、止まってしまったかに見える歴史の瞬間が、いまを生きる人の行為により、時空を経て蘇り、現在へとつながり、生き続け、表現の礎になる」という意味を孕んでいると説明される(※5)
 美術史家・批評家であるゴールドバーグの古典的な「パフォーマンス」の定義を参照するならば、「いまを生きる人の行為」としてのパフォーマンスとは、すなわち自らの身体を素材として、空間・時間を共有する人々に向けて行為を提示する「ライヴ・アート」としてのパフォーマンスである(※6)
 さらに、アート・アクティビズムの政治性を通過した1970年代以後の文脈を踏まえるならば、観者との関係において生産される身体のアイデンティティや政治的・文化的・社会的な諸文脈との交接がパフォーマティブな行為を通じてあらわになること、対象の知覚ではなく生きられる出来事の受容に観者を導くことの美学的・政治的な諸形式が、批評と検証の俎上にあげられ、問題化されることになるだろう。

【1-1 注】
※1 https://www.goethe.de/ins/jp/ja/ver.cfm?fuseaction=events.detail&event_id=22042808

※2 プロフィールについては、小林のWEBサイトを参照のこと。過去作品の記録映像などアーカイブもアップされている。「自身の身体を中性的な立体物として用い性や人種的な固定概念に問いかけ束縛や流動性を表現。また自由と平等の不確かな世界を制限的な社会的コードを疑い人間の存在意義を探るパフォーマンス作品を発表。現代美術作品だけでなく、舞台や映像作品にも多数携わる。」https://www.yukikoba.com/

※3 https://www.goethe.de/ins/jp/ja/sta/tok/ver.cfm?fuseaction=events.detail&event_id=21625637&fbclid=IwAR1j6utPW_udktXRfzy3JC_C46YuMxrWCGzDXhFXeD5ZztFlLxWp-6gbkTs

※4 https://www.stilllive.org/intro(2016年に結成されたコレクティブはすでに解散している)。

※5 https://www.youtube.com/watch?v=guihQTNDeGQ(ただし当時は「lll」が「llll」と表記されている)。

※6 「その本質上、パフォーマンスは芸術家による生きた芸術(ライヴ・アート)である、という単純な言明以上の正確あるいは安易な定義を受けつけない。……パフォーマンスは、多くの参照物――文学、演劇、戯曲、音楽、建築、詩、映画、空想などをいろいろに組み合わせ、展開させながら、自由に利用しているのである」(ローズリー・ゴールドバーグ『パフォーマンス』、中原佑介訳、リブロボート、1982[PERFORMANCE:Live Art 1909 to the Present,Thames and Hudson,1979])。
 本書では、20世紀初頭の未来派やダダにおける歴史的アヴァンギャルドの系譜から、アメリカのブラック・マウンテン・カレッジの実験的イヴェント(1952)、アラン・カプローの「ハプニング」(1959)を起点に、1970年代の自覚的に身体を芸術的媒体として用いるボディ・アート、自伝的パフォーマンスを経て「パフォーマンス・アート」のジャンルが自己形成されるひとつの歴史的過程を叙述している。1979年の初版では、その「周辺」として「イメージの演劇」と呼称されたロバート・ウィルソンやリチャード・フォアマンのパフォーマンス・シアターに関する言及で終わっている。2011年に出版された第3版(未邦訳)では、さらに21世紀までの動向が紹介される。
 ちなみに、演劇の側からパフォーマンスへの接近に関して日本語で読める文献としては、セオドア・シャンク『現代アメリカ演劇 オルタナティブ・シアターの探求』(鴻英良・星野共・大島由紀夫訳、勁草書房、1998)や、エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』(中島裕昭ら訳、論創社、2009)など。
 00年代~10年代は、むしろリレーショナル・アートやSEA(ソーシャリー・エンゲイジド・アート)のフレーミングから、ある特定の社会集団に介入する行為としての(必ずしも自身の身体を素材・媒体とするわけでもない)「パフォーマンス」に注目が集まる傾向にあったようだ。ネットで読めるものとして、星野太「拡張された場におけるパフォーマンス」(www.saison.or.jp)の概説が簡便。他に、クレア・ビショップ『人工地獄 現代アートと観客の政治学』(大森敏克訳、フィルムアート社、2016)、アート&ソサエティ研究センター SEA研究会編『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践 芸術の社会的転回をめぐって』(フィルムアート社、2018)、田中均「シャノン・ジャクソン『ソーシャル・ワークス』における 「インフラストラクチャーの美学」:「アートプロジェクト」の美的評価―その理論的モデルを求めて③」(https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/71356/cod_04_091.pdf)などで大まかな動向を捕捉可能であると思われる。

[1-2]「直接的なもの」と「媒介されたもの」

 さて、大雑把ではあれ「パフォーマンス」という語の意味合いを確認した。わざわざそれをしたことには理由がある。STILLLIVEというプラットフォーム型の実践を準備したメディア的・歴史的条件を確認しておきたかったからだ。ゲーテ・インスティトゥート東京のWEBページに掲載されている2019年の「STILLLIVE」の企画説明には、次のように書かれている。

小林が集めた参加者が一週間にわたってテクノロジーの発達やデジタル主体のアートが主流となりつつある今日において、アナログ性を持つ新しい表現の可能性や身体の政治性を検証し、パフォーマンスアートの実践につなげていく(※7)。

 だから、第一に「STILLLIVE」は「直接的なもの」(アナログ)と「媒介されたもの」(デジタル)の拮抗をひとつの課題として提示している(※8)
 言い換えれば、ローカルな地理的・物理的制約を超えて大量の情報―文字・動画・写真・イラストetc―を瞬時に転送・共有・複製・サンプリング可能になったボーダレスな情報環境のなかで、〈いま・ここ〉の強い制約を受ける不自由な「生身の身体」がいかなるポテンシャルを持ちうるのか、それがあらためて問われているということだ。その再検証を迫られているという認識を小林は(当然の前提として)持っているのだと思われる。
 だから、小林は「いまを生きる人の行為」に言及する。とはいえそこで、ある意味では(※9)ナイーヴなライヴに対する信頼が表明されているわけではない。
 つまり、身体をメディア化・商品化する支配的な――ジェンダー・民族・人種・階級等の――諸表象に対して、直接現前するがゆえにメディア化されない「生身の身体」で抵抗するといった二項対立的な図式が提示されているわけではない。
 むしろ、網状/ネットワーク的な連鎖のプロセスに投げ込まれた不安定な身体=メディウムの可変性や脆弱性に、「いまを生きる人の行為」の「アナログ性を持つ新しい表現の可能性や身体の政治性」を探求しているといった方が適切なように思われる。
 後述するように、本イベントでは13名のアーティストによるパフォーマンスがじつに乱雑に入り乱れて展開した。その様子は、インターネットを流通=循環する無数の情報群のようにほとんど追尾不能であり、同時に連想的な記号とイメージの「共鳴的」と言いうる喩的な時空間を形成していたのである。

【1-2 注】

※7 https://www.goethe.de/ins/jp/ja/sta/tok/ver.cfm?fuseaction=events.detail&event_id=21625637&fbclid=IwAR1j6utPW_udktXRfzy3JC_C46YuMxrWCGzDXhFXeD5ZztFlLxWp-6gbkTs

※8 日本語で参照可能な文献としてドイツを拠点とする演劇研究者、クリストファ・バーム「舞台を代替する 演劇とニューメディア」(『演劇論の変貌』、論創社、2007)など。

※9 というのも、ライヴの生々しさがある特定の場面においては戦略的有効性を持ちうることも考えられるからだ(直近でわたしが観劇/鑑賞したものとしては、「「campfiring」の雑感--小宮麻吏奈のパフォーマンスにおける喩のふくらみを中心に」を参照のこと。問題は身体のライヴ的価値の本質主義的な信仰であり、ライヴ性もまた使用されるべき諸価値のひとつであるという相対的な視点は、好むと好まざると、いま現在の複雑化した情報環境に攻囲されるわたしたちの身体を批評的に対象化する際に必要不可欠な前提を成していると考えられる。

[1-3]パフォーマンス・アートのあいまいな吹き溜まり

 もうひとつ指摘しておきたいのは、このプラットフォームがパフォーマンスアートを主体とした、と注釈されていることだ。それのどこに注目すべき点があるのか。そのことを示すために――すでに20年前の論文になるが――内野儀の「パフォーマンス・アート」への言及を参照しておこう。

パフォーマンス・アートという表現ジャンルがある。ただのパフォーマンスでもなく、パフォーミング・アーツでもなく、あるいはまた、アートとしてのパフォーマンスという非歴史的で曖昧な概念でもなく、パフォーマンス・アートというれっきとしたジャンルである。……[演劇側・美術側の双方から]ジャンルとしてのパフォーマンス・アートという認識が、少なくともまだ日本では希薄であるようにわたしには思えている……(※10)。

 内野は、1980年代以後にはアメリカにおいて「パフォーマンス・アート」という表現形式が独立したジャンルとしてポピュラリティを獲得していったのに対して、日本における「パフォーマンス・アート」は表層的な受容にとどまり、「パフォーマンス」というあいまいな語で名指されはしたが、ひとつのジャンルとして確立されなかったと指摘している(※11)
 2011年からロンドンのCentral Saint Martins College of Art and Designで、2014年~16年にかけてRoyal College of Artに進学して「パフォーマンス」を歴史的・理論的に学んだという小林が、どのような歴史的視座の教育を受けたのか、そしてイギリスにおける「パフォーマンス」のコンテクストがどのようなものであるのか、わたしにはわからない。
 しかし、極めて単純化していえば、2020年の日本という地理的・歴史的局面においても、ジャンルとしての演劇(舞台芸術)・現代美術の双方から周縁的なものとみなされる「身体」を素材としたあらゆる――おもにサイトスペシフィックな――行為、そしてより一般的には「ダンス的」なスペクタクルが「アートとしてのパフォーマンス」というあいまいな吹き溜まりとして、ぼんやりとイメージされているのではないか。
 それゆえ、「パフォーマンス・アート」の美学的・社会的なコードが共有されていると想定可能なヨーロッパ(と大雑把に名指しておくが)をボーダレスに移動しながら、セクシュアリティとアイデンティティをめぐる自伝的パフォーマンスの系譜に連なる政治的な諸実践を展開していたと思われる小林にとって、「パフォーマンス・アート」の言説・制度・アート市場の構築的な歴史性を持たない日本の創作・受容環境では、そもそもパフォーマンスを公開する場を持つことそのものが難しいと感じられたのではないだろうか。
 だからこそ、「STILLLIVE」は日本の地理的歴史的コンテクストにおいて「パフォーマンス・アート」の受容を可能にするインフラ環境の整備を、ひとつの戦略的目標として措定していると考えられる。
 諸ジャンルの「パフォーマンス」を形式的媒体とするアーティストの技術的な交流(ワークショップ)とネットワークの構築、観客との距離を測定するためのプレゼンテーション、トークセッションの批評的な言説によるフレームワーク、そしてこの毎回のイベントそのものが、ひとつの「歴史」的なプロセスを構成するモメントになることが期待される。総じて、「パフォーマンス・アート」のプラットフォームの創設が目指されるのである。

【1-3 注】

※10 [ ]内は筆者。内野儀「パフォーマンス・アートとは何か?」(『メロドラマからパフォーマンスへ 20世紀アメリカ演劇論』、東京大学出版会、2001)。内野は本論文で「アクション――行為がアートになるとき1949-1979」展に寄せられた東京現代美術館学芸員(当時)の岡村恵子の論文で、1980年代以後のアメリカでは「パフォーマンス」が先鋭的な力を失ったと指摘していることに対して「演劇の側から」批判的検討を加えている。そこでは、フェミニスト・パフォーマンスの政治的な諸実践と、ロバート・ウィルソン『浜辺のアインシュタイン』(1976)に代表される「イメージの演劇」系のパフォーマンスの接合としてのローリー・アンダーソン『アメリカ合衆国』(1980~)の「スペクタクル/ミックストメディア・イヴェントとしての自伝的パフォーマンス」という見取り図を描きだすことで「パフォーマンス・アート」が「定義可能なジャンル」として大衆化していったことを跡付けている。

※11 ただし、今日では「パフォーマンス・アート」そのものの脱ジャンル化が進行しているようだ。パフォーマンス研究を専門とする江口正登は『美術手帖』2018年8月号の「ポスト・パフォーマンス」特集にて、「パフォーマンス」の用語について次のように簡潔な整理を提示している。「用語の問題としては「パフォーマンス」と呼ぶのか、「パフォーマンス・アート」と呼ぶのか、ということもある。この両者をほぼ同義語として用いる立場もあるが、あえて言えば、後者の呼称は、この語が成立した1970年代の実践ととくに結びついているように思われる。また、その時期の実践が実際にそうであったように、美術(史)との結びつきを明確に含意している。対して、今日パフォーマンスという際には、舞台芸術のオルタナティブな流れや、ポピュラー・エンターテインメントなど、美術の外の実践までイメージするのが普通だ。本キーワード集でもそうした意味の広がりを考慮して、パフォーマンス・アートではなくパフォーマンスというより包括的な言葉を用いている(後略)」(江口正登「接触領域としてのパフォーマンス」)。

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