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「campfiring」の雑感--小宮麻吏奈のパフォーマンスにおける喩のふくらみを中心に

日時:2020年9月17日(木)22:30ー翌5:00
出演:青木彬、うらあやか、カニエ・ナハ、記録係(関真奈美+玉木晶子)、黒田大祐、小宮麻吏奈、田上碧、武本拓也、メグ忍者、山内祥太、山本悠、、Ad Mornings(苅部太郎、土本亜祐美、大和由佳、Zoé Schellenbaum、Jang-Chi、他)※記録係、 黒田大スケは会場には不在。
企画: 小宮麻吏奈 、メグ忍者 (オル太)
運営:オル太

ここに今ぼくがいないこと
誰も知らなくて
そっと教えてあげたくて
君を待っている

ぼくらは生まれつき
体のない子どもたち

--たま『電車かもしれない』

という歌詞を想像させられる、変な夜だった。写真撮影、SNSへの投稿は禁止。何らかの事情でイベントの開催場所は明かせない(のだと思う)。スーザン・ソンタグ『《キャンプ》についてのノート』をひとつの補助線として、朝まで焚火(キャンプファイア)をしながら、各所で参加アーティストのパフォーマンスが展開される。

イベントの参加者は、受付で配られる背丈に合わせたブルーシートを会場内のどこかに敷いて、ゴロンと寝転がりながら夜を明かすことができる。眠たくなったら眠れる親切設計だ。わたしはといえば、4時くらいにうらあやかが焚火のまわりで炎のかたちや火の扱い方についてなにかを喋っているのを聞きながら、しっかりと熟睡し、気づいたらイベントは終わっていた。

イベント中は、主に3つのエリアでパフォーマンスが展開される。焚火スペースでは、『《キャンプ》についてのノート』のひと段落を読むことと引き換えに、焚火で炙れるフードが当たる「ソンタグくじ」(だったと思う)を引くことができる。わたしが当たったのはグミだったので、くし刺しにして火に近づけると、ドロッと溶けて落下した。

一応、タイムスケジュールも配られるのだが、ほとんどジャストタイムで開始されず、エリア内のどこでやっているかもわからない。滞在している時間のほとんどは計画されていない余白の時間に満ちていて、ある意味では見るべきものが何もない宙ぶらりんの状態に参加者は放置される。

実際、パフォーマンスとそうではないものの境界はとても曖昧であり、それゆえ参加者は観者と関係者のあいだの不安定な位置を行き来せざるをえない。つまり、結構な時間、人々はなんとなく知り合いと駄弁りながらその場に滞在しているように見える。

だからそれは関係者に閉じたミクロユートピア、いわゆる「関係性の美学」批判で言われていたような、あるいは日本語文化圏のアングラ小劇場の文脈であれば観客の同質性を前提にした「共感の共同体」批判で言われるような状態ー仲間内の集まりーをそれとなく誘発する傾向があったような感じもする(単にわたしが劇場における注視の時間に馴致されているだけかもしれないが。参加者の形式的平等を担保する近代劇場の制度内では具体的な人としての顔/身体が消える、つまり実際にその場を成立させている人々の属性や具体的な関係性は問われないことになっているので)。美術館の展示とは文脈が違うので一概には言えないが、極端に制約がない状態では、逆説的に、いや当たり前なのだが、人や事象との出会い方において「日常」が再生産されがちになる。

しかし一方で、イベントが計画されない余白に満ちているからこそ、滞在する時間の質の設計は参加者の自由に委ねられ、お客様的な受動性はもちろん、能動的な主体化への期待からも解放された時空間に身を置くことができるようになるとも言える。とにかくどこかでやっているパフォーマンスを見つけに行ったり、誰かに話しかけたり、自分なりの遊び方を開発したりしながら、キャンプな夜長の過ごし方、そしてその場の体験の編み込み方を手探りしていく。だからもちろん、ずっと寝ていてもいいわけなのだが。

そのなかで、気になったパフォーマンスをいくつか書いておきたい。

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