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『魔法使いの嫁』が好きだという話

2019年の終わり。私はあるアニメを見ようと意気込んでいた。それが、『魔法使いの嫁』だ。何故なら、Amazonプライムでの見放題配信から外れると知ったから。駆け足で、アニメを観て、映像美であり、声優チョイスの良さであり、なにより音楽の効果的な使い方に、ずいぶん痺れたものである。

主人公チセは人身売買され、取引した相手はエリアス・エインズワースという異形の魔法使いだった。突然「弟子にする」と言い出したり、その後は「お嫁さんになってもらうんだから」などの問題言動の連発。なるほど、エリアスは、人間らしい「感情」を有しているのに、それをうまく消化し切れないらしい。チセは魔法を学び、エリアスは「人間」を学ぶことで成長していく、美しい物語である。

と言ってしまうのがよいかな、と思ったのだけれど、なんだかうまくいった感じがしない。毎度起こるハプニングに想起されるのは、虚構なのに「現実」なところが面白いと思う。児童虐待、感覚過敏、発達障害とか、そういう言葉で言い表される「現実」が、魔法の世界でも顕現しているのが、読み解けるのだ。

昨日までやっていた、原作漫画の既刊分無料配信によって、チセがエリアスの家を出る「学園編」の出だしまでは読んだのだけれど、その「現実」感は色濃い。チセは日本に住んでいた頃から家庭でも学校でも被虐待児であった、という背景との重ね合わせで、異国の魔法の学校においても、それは映される。

魔法使いの嫁は、とにかく、チセとエリアスの「相互互恵関係」的なものにとても、とても萌えるのだけれど、そのような関係はガラスのように脆いものである。それもまた、人間関係の脆さを端的に表しているようで、触れるときに薄寒く読みながら観ながら感じてしまうのである。

しかし、原作漫画の無料配信終了後にぐだぐだ言っているのは後出しじゃんけんみたいなのだけれど、それでもアニメならdアニメストア等各種サービスで視聴可能である。アニメは映像と音楽の魔法が、原作の方が、なにより「言葉」の魔法がかかっている。だから、どうか、この世界の扉を開けて、垣間見てほしいのだ。幻想と現実を。



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