寛容の心と未来
シンガポールに住んでいると、タクシーにすんなりと乗れないことも多い。
ベビーカーがあるときなどは、手をあげても無視されることがあるし、
例え停まってくれても、行き先を告げると、
そっちには行かない、と断られる。
あらかじめ、行き先を入力した上で、呼ぶグラブタクシーなら、呼び賃が別途かかるが、
だいたいはちゃんと来てくれるので、良く利用するようになった。
何が言いたいか、というと、
ここで学んでいるのは、他人の都合に振り回されることによる、寛容の心、だ。
まずは、それぞれの意思があり、次に人のために働く、という順番がある。
滅私奉公というものは、見当たらない。
日本では、就業規則に事細かに服務規律が書かれているが、
シンガポールには、そんなものはないのかもしれない。
セブンイレブンの店員ですら、私用電話をしつつレジうち。
スーパーの店員が携帯を見ながら、品出し。
日本なら言語道断。
でも、こちらでは、普通のこと。
そこで、ふと、考えた。
日本に外国人が増えたり、制約のある労働省が増えたら、今の秩序を維持出来るのか?
少子高齢化による労働力人工の現象を、女性と高齢者、外国人によってカバーしようとしている現実。
そこは、何か仕事のほかにも育児や介護を担っている人材であったり、文化風習が異なる人材である。
仕事のみに、滅私奉公をするのは無理があるようになるかもしれない。
そこに必要なのが、日本では失われつつある、寛容の心。
でも、寛容の心は、慣れの問題でもあるし、
なんとかなるかも。
みんなが、寛容の心をもっと持つようになったら、電車でベビーカーを見ても舌打ちなどしないだろうし、
もしかしたら、それはそれで日本社会が上手くやっていける未来が来るかも。
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